現実の世界と深層心理の世界をつなぐなにか
村上春樹はデビュー作『風の歌を聴け』からすべてリアルタイムで読んでいる。次作の『1973 年のピンボール』までは、時代を表した軽い小説としてしかとらえていなかったが(それでいて買って読んでいるのだから、なにか引っかかるところはあったのだろうが)、その次の『羊をめぐる冒険』で、この作家に対する関心が一気に高まった。
そんなわけで、ハルキストと自称していいと思っているが、もっとも重要な作品は? と問われれば、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と答える。
1985年の発表だから、すでに33年が経過する。再読したのは一度だけ。それでも、この作品の印象は脳裏に色濃く残っている。なにか得体の知れない発光体が、かすかに点滅しているのだ。神経節に潜んで、外に出る時期を待つ水疱瘡菌のように。
小説の構造は、現実の世界を舞台とする「ハードボイルド・ワンダーランド」と非現実の世界を舞台とする「世界の終り」が交互に進行する形式をとる。前者は表層の世界、後者は深層の世界ともいえよう。当初、ふたつの物語はまったく接点を持たずに進むが、やがて「一角獣の頭骨」が現れることによって、少しずつ両者はつながっていく。
「世界の終わり」は壁に囲まれた街が舞台だ。住人は影を持たず、心も持っていない。感情も持たず、淡々と時間が流れていく。老いも死もない。この世界に来てしまった主人公は規則のとおり、影を引き剥がされるが、影はまだ生きている。影が生きている間、主人公の心も生きている。
「ハードボイルド・ワンダーランド」はその名のとおり、ドタバタ活劇のように物語が進行する。主人公は「老人」によって新しい意識の回路を植え付けられ、死を余儀なくされる。新しい意識の回路は、現実世界(ハードボイルド・ワンダーランド)の地下にあるとされ、そこでは「やみくろ」が支配している。余談だが、その第3世界があるのはどうやら神宮外苑あたりの地下のようだ。
「世界の終り」の主人公は、図書館の女を救うために影を放棄し、その世界にとどまろうとする。
「世界の終り」と「ハードボイルド・ワンダーランド」はどういう関係なのか。主人公がなんらかの点でつながっていると考えていいだろう。はたしてそれがなになのか? 時間なのか空間なのか、あるいは記憶なのか。現実世界で死を迎えた主人公の、「その後」の物語が「世界の終り」なのか。疑問は泡沫のように湧いてくる。ある人はユングの心理学を援用し、この作品の構造を解き明かす。
だが、文学作品を理屈で解明しようとするなど、栄養成分を計算しながら食事をするようなものだと思う。よけいなことを思考することによって、本来の味がわからなくなるという弊害があることを忘れたくない。
村上春樹はこの作品以降、より小説の完成度を高めていくが、私にとってこの作品は別格の存在だ。どう別格なのかって? それもうまく説明できない。アメーバのように形をもたないが、たしかな存在感を放つ作品。それがいつまでも私の心のなかでもぞもぞと動いている。そして、今生きている現実の世界とは別に、自分が主人公になってパラレルに進行している世界があるのではないかと思え、気がつくと仏教の本義ってなんだっけ、と思考を巡らせている。