明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは
親鸞
浄土真宗の開祖、親鸞聖人がまだ若松麿だったころ。その幼名を捨て、9歳で得度したときに詠んだ歌である。
幼くして父母を亡くした若松麿が出家を願い出、剃髪しようとしたそのとき、いたいけな姿を見守る周囲の一人が「時間も遅いし明日にしてはどうか」という言葉に対する返答だった。
「明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」
明日もまだ咲いていると思っている桜も、夜中に嵐が来て散ってしまうかもしれない。
「人の心はいつ変わるとも知れず、せっかくの決意も一夜で霧消してしまうかもしれません。どうぞ情けはお捨てになって、髪を剃ってください」
幼き若松麿の心の声が聞こえてきそうだ。
9歳とは思えない覚悟である。
「明日でいい」と思っていたら、機を逃してしまったということはよくあること。
先延ばしすることで、そのときの気持ちは薄れていく。
「明日」は「いつか」になり、「いつか」は「永遠に」…ということもある。
思い立ったが吉日。
良いことも悪いこともその日のうちに。
だからこそ、新しい明日があるのだ。
「明日死ぬと思って生きなさい。永遠に生きると思って学びなさい」という、ガンジーの言葉が甦る。
花は散る。
思い残さず愛でておこう。
その根が確かならば、やがて新しい花は咲くのだから。
(170720 第336回)