変容するこの世界の中で、わしらはただわしらの仕事をもくもくと続けるだけじゃ。それがわしらの『職』なのだから
梨木香歩さんの小説『裏庭』の中の一文である。この小説は、孤独な魂を抱えた主人公の少女の冒険の旅がきっかけとなって、それぞれの傷を負った他の登場人物たちもまた、ひとつずつ壁を乗り越え癒されていくというメタファーに溢れたファンタジー作品。
旅も終わりに近づき、少女が気づいた「真実」の本質に、彼女が紛れ込んだ不思議な世界の住人の一人が言ったセリフがこれだった。
住人の一人が静かに言った。
―― 勇気と真実だけが、あんたをあんたにする。
少女は怒鳴るように叫んだ。
―― 真実なんて……。一つじゃないんだ。幾つも幾つもあるんだ。幾つも。幾つも。そんなもの、つきあってなんかいられない」
怒鳴りながら、彼女はいかに自分がその事実にダメージを受けてきたかを初めて知り、腹を立てた。
〝唯一無二の、確かな真実なんて、どこにも、存在しない〟という事実に。
別の住人が、落ち着いた声で彼女に言った。
―― 真実が、確実な一つのものでないということは、真実の価値を少しも損ないはしない。もし、真実が一つしかないとしたら、この世界が、こんなに変容することもないだろう。変容するこの世界の中で、わしらはわしらの仕事をもくもくと続けるだけじゃ。それがわしらの『職』なのだから。
だから、変容する世界に文句をつけるより、その世界で生きることを選ぶのだ、と彼は言葉をつなぐ。
そうだ。
刻々と変化してゆく世界に文句をつけてどうなる。
文句を言ってるだけでは、なにも変わらない。
立ち止まったまま空に向かって唾を吐きかけても、自分の顔に落ちてくるだけではないか。
自分の仕事を、今できることを、もくもくと続けていけば、少しずつでもちゃんと前に進む。
人知れずもくもくと働き続ける臓器がある限り、誰もが生きるという『職』を与えられているのだ。
この世には絶対的に確かなものなどひとつもない。
なにが真実で、なにが真実でないかということも関係ない。
ただ、『職』を全うする任務があるだけだ。
今回は「おかげさま」を紹介。「おかげさまで、なんとか無事に…」と、普段なにげなく使っている「おかげさま」は、外国語では表現しづらい日本ならではの言葉です。続きは……。
(210910 第746回)