もとよりもなきいにしえの法なれど 今ぞ極まる本来の法
茶聖・千利休がもっとも言いたかったのはこれではないだろうか。茶の作法や心得を歌で説いてみせたという『利休百首』には、茶の教えが100個も事細かく歌われているが、茶の湯が今に残っている理由は、これに尽きると思う。
江戸期の蘭学者、緒方洪庵を祖父にもつ医学史学者の緒方富雄は、
「科学とはあたりまえのことを集めた蔵」で、
「科学的方法とは、このあたりまえのことを使いこなし、またそれを見つける方法」だと言い遺している。
先進医療や最新テクノロジー、新たな宇宙空間の発見など、さまざまな分野で科学技術はめざましい発展を遂げているが、緒方の言葉を借りれば、この科学技術のめざましい発展は「あたりまえ」の存在なくしてありえなかったというわけだ。
つまり、
「新しいものは常に古いものの見つめ直し」と言うことで、
さらに言えば、
「古いものに“今”という新しさを取り入れること」が、次につなげていく方法とも言えるのではないだろうか。
なにごとも慣れてしまえば、あたりまえなる。
あたりまえになってしまえば、それはもう古い。
ところが、その古いあたりまえを見直さなければ、新しいものは生まれない。
古い「あたりまえ」を見直すと、そこには必ず「今」には通用しないものが見えてくる。
移り変わる季節がそうであるように、動物も植物も生き物はみんな、その時々の「今」の環境に適応しながら生きているのだ。
千利休の言う
「もとよりもなきいにしえの法なれど 今ぞ極まる本来の法」
も、その習いだろう。
茶の湯といっても、もともと薬用として飲まれていたお茶である。
心身の健康のため、今この時を生きんがためのお茶だったのだ。
新しい時代を生きるには、「今」から逃げるのではなく、「今」を受け入れ、新鮮な空気を吸い込むことが必要なのだ。
今回は「色なき風」を紹介。
―― 吹き来れば身にもしみける秋風を 色なきものと思ひけるかな(紀友則『古今六帖』)続きは……。
(211103 第759回)