「思いやり」の心が思いやる相手にわかった時は、それはもう「思いやり」にならなくなります
作家で脚本家の平岩弓枝さんの言葉を紹介。ある幼稚園が発行している学園長の著書で見つけた。学園長が平岩さんの「思いやりの心」という講演に行ったときに聞き知った言葉らしい。この一文を読んで、思わず息を呑んだ。身の縮む思いがする。
―― はたして自分は「思いやり」を相手に気づかれることなく差し出せているだろうか。
「やってやったんだ」と言わんばかりの態度になってはいないか。
平岩さんの言葉に触れて、自問した。
―― あの時、あの人に、あんな風にやったことは、まったくの自己満足だったのではないか。
振り返ると、そんな場面が多いような気がする。
平岩さんの言葉に当てはめるとしたら、伝わるのはもっと奥の方にある本心ではないか。
―― こうすれば振り向いてもらえるはず。いいことをすればいいものが返ってくるはず。
上っ面な思いやりとは裏腹に、奥底に沈んだあさましい想念の方が伝わってしまうのだとしたら……。
「思い」は自分のものであって、相手の「思い」とは違って当然。
それをこちらの勝手でやるのだから、相手にとってはありがた迷惑ということもある。
にもかかわらず、相手に「思い」をわからせようなど、傲慢にもほどがある。
本当に相手を思ってやったことは、伝えようとせずとも自然に伝わる。
それもずいぶん経ってから。
すぐにわかるものは、それほど大したことではない。
親の愛、人の情、良いも悪いも、時が経たねばわからないことの方が、より深く身に沁みてゆく。
「その人に知れずに、その人を心から愛し、心から信頼し、心から身を捨ててまで思ってやる、そんな気持ちを『思いやり』というのでしょう。あくまで思っている人に悟られないこと」
という平岩さんの講演に、学園長はいたく感動したのだそうだ。
自己主張があふれる今の世の中で、こんな奥ゆかしい 「思いやり」に触れあうことができたら、どんなに感動し、どんなに幸福に包まれることだろう。
どうやらこの世界は、人知れず「思い」をやり通せる人の思いの方が、必ず誰かに伝わり深く根付いていくようだ。
今回は「しろかね」を紹介。
―― 銀も金も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも(『万葉集』より)。山上憶良のこの歌で「銀」を「しろかね」と呼ぶのだと知った人も多いのではないでしょうか。続きは……。
(22014 第773回)