私たちは自分の庭を耕さなければならない
啓蒙主義を代表するフランスの哲学者、ヴォルテールの言葉を紹介。作家でもあるヴォルテールは数多く著書を残し、また数多くの名言を残してもいるが、伝来にはよくあるように、悲しいかな歪曲された名言も当然多い。これは某新聞の書評欄で見つけた言葉なので真偽はわからない。ただ、ヴォルテールの言葉云々というより、深く納得がいった。
庭仕事をしたり、植物を育てたことのある人はわかっているだろう。
何につけ「育てる」ということは時間と手間のかかる仕事である。
こちらの思うようにいかないことばかりで、投げ出してしまいたくなることも度々ある。
それでも人は土からは離れ難く、芽を出すものに心をもっていかれる。
時が経つにつれ、ただ育ったものを差し出されるよりも自分で育てたいと思うようにもなるものだ。
年若いうちは育てられる側であるから、しっかりした大地と広々とした空や海を求めるものの、他を知り、己を知ってゆくうちに、少しでもいいから得たものを残し、次に繋げたいと思うようになる。
めぐる季節はそのように、生命を育みながら連綿と続き、これからも続いてゆく。
今立っている場所は、かつて生きた誰かが立っていたかも知れない。
今いる場所は、かつて生きた誰かの土地だったかも知れない。
そこに立っているのは偶然ではなく、遠い誰かに託された必然のことかも知れない。
だとすれば、立っている場所を、もっと心地よい豊かな場所にしてみよう。
肥沃な地であれ、不毛の地であれ、それを耕し種を撒いて懸命に育てれば豊かになれる。
パール・バックの小説『大地』に、こんな言葉がある。
「わたしたちは、土から生まれて、いやでもまた土へ帰るんだ――お前たちも、土地さえ持っていれば生きてゆける。――誰も土地は奪えないからだ」
貧しい農民から大富豪になって人が変わってしまった主人公・王龍が、業と欲にまみれた後の老年に言った言葉だ。かつて懸命に働いて生きた土地は、どんなに物理的に離れても心は離れられなかったのだろう。
なぜなら、そここそが「自分自身」だから。
「私たちは自分の庭を耕さなければならない」と、ヴォルテールも言っている。
さあ、自分の手で自分という庭を、大地を耕そう。
今回は「三つの花」を紹介。
美しいものを花に喩えるのが好きな日本人は、内に篭りがちな寒い冬でも美しい花を愛でたいと思ったのでしょう。凍りつくような寒い朝、大地を覆い尽くすようにキラキラと霜が降り立ちます。この霜が「三つの花」です。続きは……。
(220118 第774回)