いいものに出会ふと自分の命を拾った思ひがある
文豪、川端康成は美しいものに貪欲だった。とりわけ自然美や美術品への想いは相当だったようだ。川端の近辺には死があふれていたからだろう。続けざまに家族を失った幼少期から、戦前、戦中、戦後まで、川端は頻繁に死に出くわした。影のようにぴったりくっついている死を唯一忘れられたのが、いいもの、美しいものとの邂逅だったのだろうと、この言葉から推察する。
いい本を読んだり、いい映画を観たり、いい音楽を聴いたりと、いいものに触れると、感動して鳥肌が立ったり、胸がいっぱいになって最高の気分になる。
「人生って素晴らしい!」「生きいてよかった!」なんてことまで思ってしまう。
川端がいう「命を拾った思い」とは、そういうことではないか。
生きていることを実感できるのは、心が動いたときだ。
喜びも、悲しみも、怒りさえも、生きている証である。
その感情が大きければ大きいほど、行動につながる。
そうやってつなげた行動は、また次の誰かにつながってゆく。
川端は所蔵していた土偶を眺めて、こう思った。
「四千年ほど前の作である。それが今も私の原稿用紙の前にあって、私に語りかけて来る。……窓に梢を見る、北山の台杉も樹齢数百年である。それらの数百年、数千年の生命も、今私のそばにあって今である」
また戦中時の夜半、近隣の灯火管制の見回りをしていたときに突然、太古の自然の息吹が心に響いてきたという。
「古い日本が私を流れて通った。私は生きなければならないと涙がでた。自分が死ねばほろびる美があるように思った。私の生命は自分一人のものではない。日本の美の伝統のために生きようと考えた」
〝美しくていいもの〟は、生命力にあふれている。
心が動くのは当然だろう。
生命が生命に共鳴しているのだから。
そうやって生命を拾い、拾われ、生命の糸はつながってきたのにちがいない。
生命と生命のめぐりあいだ。
今回は「木下闇」を紹介。
まばゆい日向とは対照的な、木々の下の暗い木陰が「木下闇(このしたやみ・こしたやみ)」です。とくに夏の木立が鬱蒼と茂る、昼もなお暗い様子をこういいます。続きは……。
(220613 第798回)