蕾が花に、芽が葉になろうとするとき、彼らは決して手早く咲き、また伸びようとはしない
幸田露伴の娘、幸田文の言葉である。随筆『木』で見つけた。静岡県と山梨県の境、阿部峠に行った時の話だった。楓の純林が一斉に芽吹くところを見たいと、自然保護課に頼んで5月の連休に訪れたという。
人によって花が好きな人もいれば、新緑がいいという人もいる。
幸田文は、どちらも捨てがたいが、とりわけ「咲きだそうとする花、ひろがろうとする葉に一番心ひかれる」らしい。
なぜなら、そこに「見守る目」が働くから。
「蕾が花に、芽が葉になろうとするとき、彼らは決して手早く咲き、また伸びようとはしない。花はきしむようにしてほころびはじめるし、葉はたゆたいながらほぐれてくる。用心深いとも、懸命な努力ともとれる、その手間取りである」
花や葉の、いのちのはじまりには、それぞれ遅渋があり、そこを過ぎれば、しっかりと一人前になる。
その「希望」というたしかな兆しを見守ることが、大切ないのちを守り、育むのだ。
ときがくれば、花はほころび、葉は大きくなる。
が、スピード重視で、すぐに結果をだそうとする今の社会は、「見守る目」を忘れてはいないだろうか。
見守る時間である。
「時間」は、「トキ」と「アイダ」が連なったもの。
トキは休日や祭日の「セチ(節)」を意味し、それ以外の日常をアイダと呼んだ。
茎と茎の間の節目に芽をつけ、枝葉をのばし、花を咲かせる植物を見れば、「いのちの生かし方」もわかるのではないか。
人の一生も、「トキ」と「アイダ」のくりかえし。
限りある生命の時間を見つめてみよう。
今回は「秋津」を紹介。
―― 夕やけ小やけの あかとんぼ おわれて見たのは いつの日か……
童謡『赤とんぼ』の歌は、日本人であれば一度は口づさんだことがあるのではないでしょうか。
続きは……。
(220816 第807回)