木や草に対して自然は、多くの場合、適当にやさしい
ふとしたときに、なぜかこの言葉がよみがえる。幸田露伴の娘、幸田文の言葉である。著書『木』にあった。静岡県にたびたび起こる、山地の崩落と安倍川の荒廃をめぐっての思いだった。今から30年ほど前の話である。
人は、自然を「きびしい」とも「やさしい」ともいう。
どちらも最もだと思う。
とくに島国日本は自然災害の多い国でもあるし、古来より自然の脅威に身を震わせてきた民族である。
言葉にしろ土地の名にしろ、自然の姿をうつしとったものも多い。
それゆえ、地名や言葉から自然のありようを知ることもできる。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」と、鴨長明が『方丈記』に書いているように、自然ほど残酷に、ものみな移りゆくことを教えるものはない。
人は自然の前に無力であることを、つくづく思い知らされる。
大自然の懐で癒されるのも、もしかすると、己の無力さを突きつけられるからだろうか。
茶室に刀を持ち込ませなかった利休のように、天地自然は地位や権力といった鎧をことごとく剥ぎとり、どんな人も丸裸にしてしまう。
いくら策を練ろうとも、自然はすべてお見通し。
最後の最後は、「成るように成る」だけなのである。
草木はそのことをよく知っている。
人間以外の生き物は、よくよく知っているにちがいない。
生かされる恩恵がある一方で、死なされる因果もあることを。
自然は、いつ何時もやさしいのではない。
ほどほどに、「適当に」やさしいのである。
そのことをわかっていれば、容易に腹を立てることもないだろう。
理不尽なことも、「しょうがない」と苦笑いでもして、やり過ごせそうだ。
大根やにんじんなど、昔から薬効のある食物は、やわらかい土壌で育ったものより、ゴロゴロと石の多い痩せた土地の方が品質も効力も優れているという。
人生に与えられるものも、「適当にやさしい」ぐらいが、ちょうどいいのかもしれない。
今回は「浮き橋」を紹介。
言葉とはふしぎなもので、使い方、語り方で、その意味も雰囲気もガラッと変わってしまいます。
「浮き橋」とは、水上に筏や舟をならべて、その上に板を渡した仮の橋のことです。続きは……。
(220912 第811回)