この世の本のなかには空白のページがある
好きな詩人のひとりに長田弘さんがいる。長田さんの存在を知ったのは、10年ほど前になるだろうか。知人から「君の書く詩は長田弘の言葉と似ている」と言われ、はじめて彼の詩集を手に取った。なるほど似ていた。それから数冊、買い求めた。その中の一編「ことば」という詩に、この言葉を見つけた。
余白のない絵を見るのは、なかなか骨が折れる。
最初から最後まで賑やかな音楽もそう。
どこかに音のない部分があれば、ほっとするのだけれど……。
一日のなかで、なにもしない、なにも考えないという時間はあるだろうか。
一年で、なにもしない、なにも考えないという日はあるだろうか。
長田さんの言葉を借りれば、
「何も書かれていない無名のページ」
―― 草をみれば
草というだけだ。
ことばは、
表現ではない。
この世の本のなかには
空白のページがある。
何も書かれていない
無名のページ。
春の水辺。夏の道。
秋の雲。冬の木立。
ことばが静かに
そこにひろがっている。
日差しが静かに
そこにひろがっている。
何もない。
何も隠されていない。 (詩題「ことば」)
この詩に、老子のいう「虚」と「静」を感じた。
目にとまった岡倉天心の『茶の本』に、老子が好きな「虚」のことが書いてあった。
「虚のなかにのみ、物事の本質は存在する」と。
「水差しの役に立つ部分というのは、水を入れるための空の部分にあるのであって、水差しの形質であるとか、それがつくられている材質にあるのではありません。
『虚』は、すべてを含んでいるゆえに強力です。
『虚』においてのみ、あらゆる行動が可能になります。」
「この世」という本のなかに空白のページがあるから、人は生きられるのだ。きっと。
何もない、何も隠されていない。
ただ静かに、世界はひろがっている。
その虚空に身を浸ひたして、人生がゆたかにかがやく空白のページをつくろう。
今回は「秋麗」を紹介。
うららかな秋、「秋麗」は「しゅうれい」とも読みますが、もうひとつの読み名「あきうらら」のほうが、なんとなく秋の風情を感じませんか。続きは……。
(221121 第821回)