不風流処也風流(風流ならざるところもまた風流)
禅の公案集『碧巌録』にある言葉のひとつ。「風流」という言葉の発端がこれらしい。年末の「ちからのある言葉」にふさわしいかどうかはわからない。ふと頭に浮かんだのが、この言葉だった。
臨済宗福聚寺住職で芥川賞作家の玄侑宗久氏は、この言葉の解釈として、
「不要に見えるものや不足なところも楽しめることが平穏に暮らす秘訣」
というようなことを、著書『禅的生活』に記している。
「風流」とは風にゆれる柳のような「ゆらぎ」であり、それを楽しめるのが「風流人」であると。
人生はままならない。
とかくこの世は目まぐるしく、生きづらくなっているようだ。
しかし、それを嘆いてみても詮無いこと。
柳のように軽くいなして生きてゆきたいものである。
と、こんな風に思っていたところへ、最近知り合った知人からこんなメールが届いた。
「天命を生かした人生を歩んで毎日が楽しくて仕方ないんだろうと思うような人も、悩み、葛藤、自問自答といった人間らしい側面はあって、人生はこうしたらこうなるという単純なものではない、という不確実性が、もしかすると生きがいにつながってるのじゃないだろうか」と。
そのとおりだと思った。
不確実性の人生だからこそ、生きる甲斐があるのだろう。
すばらしい芸術が生まれるのも、美しいものを見聞きすることも、不確実性な人生ゆえに、生きがいにもなる。
自然界に完全な「○△□」がないように、人生に確実なものはない。
人間も、完璧な人はいない。
楽しいだけの人生も、苦しいだけの人生もあるはずがない(たぶん)。
それゆえ、人は「脳」と「心」のふたつを与えられたのだと思う。
どんな人も、理性(あるいは思考)と感性(あるいは感情)の両輪が、ギクシャクしながらも回転しながら、おのずと天命に導かれているんじゃないだろうか。
ふと立ち止まって振り返った時、後ろにはくねくねまがった車輪の跡が、時にはくっきりと、時には消えそうになりながら連なっていることに気づくだろう。
今ここに立っている場所が、現地点での、天から与えられた命だと示すように。
それなら、柳のように、ゆらゆらとゆらぎながらでも立っていようじゃないか。
気まぐれな風の歌を聴きながら。
ゆく年がどうであろうと、来る年は新しい天の命が待っている。
新年が幸多き地点でありますように……。
一年ありがとうございました。
来年もよろしくお願いいたします。
今回は「やんわり」を紹介。
他国語と日本語の大きなちがいといえば、漢字、カタカナ、ひらがな、ときにはローマ字と、文字の種類が多いことでしょうか。続きは……。
(221231 第826回)