万物流転、情報不変
解剖学者の養老孟司氏の言葉だ。空前の大ヒットとなり、その名を世に知らしめた著書『バカの壁』の第四章のタイトルである。遅ればせながら本書を読んで、己のバカさ加減に辟易している。ガツンと頭をぶん殴られた気分だ。
生々流転、万物流転。
生きとし生けるものはみな、止まることなく移り変わる。
まったく鴨長明の言うとおりである。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。…世の中にある人とすみかと、またかくのごとし……」
ところが、なぜか人は勘違いする。
人は変わらない生き物だと。
これほど状況や立場によって態度がコロリと変わる生き物はないというのに。
変わらないのは、目の前に広がる事象である。
天は高く広大で、柳は緑、花は紅。
その情景は変わらずとも、眺める側の気持ちひとつで、天は低くもなり狭くも感じるだろう。
柳だって青色や黄色に見えなくもないし、花も朽葉色に見えてしまうこともなくはない。
「いつの間にか、変わるものと変わらないものとの逆転が起こっていて、それに気づいている人が非常に少ない、という状況になっている。いったん買った週刊誌はいつまで経っても同じ。中身は一週間経っても変わりはしません」
情報が日替わりだと思うのは勘違いで、週刊誌で言えば、それは単に、毎週、最新号が出ているだけ。
万物は流転するが、「万物は流転する」という言葉は流転しない。それはイコール情報が流転しないということだ、と養老さんは言う。
なるほど、死を意識する前と後とでは、見える世界がまるで違うとよく耳にする。
たとえば、死を目前にした桜の美しさは格別であると。
末期の眼だろう。
「知る」ということは、そういうこと。
これまでの自分とガラッと変わってしまうことだ。
だとしたら、情報に振り回されてしまうのも、ある意味仕方がないのかもしれない。
人は変わらないのではなく、人は変わるという本質は変わらない。
だからこそ、重々心しておきたい。
万物は流転し、情報は不変であるということを。
そう思えば、知る、学ぶことの大切さが、しみじみわかる。
今回は「花くらべ」を紹介。
平安時代の宮廷で盛んだった和歌の歌合(うたあわせ)。その中の遊びのひとつに「花くらべ」がありました。「花合わせ」とも言い、居合わせた人たちが左右に分かれ、それぞれ持ち寄った桜の花を歌に詠んで競い合うのです。続きは……。
(230318 第834回)