人を観るには眼で見ずに、肚で観ることだ
吉川英治の『新書太閤記』より。
戦国時代、巧言令色の輩が溢れていた。言葉や顔色をうまく飾り、相手をだしぬく。場合によっては命を奪う。つまりその時代、人物を見抜く目がなかったら自分の命が危うかったということ。
そんな時代、人物を見定める要諦は「肚で観る」ことだった。なぜなら、人の脳はだまされやすいから。とりわけ視覚や聴覚から入ってきた情報は、自分の都合よく解釈する傾向がある。おだてられれば相手がよく見えるし、次の誘いの手に対する警戒心がなくなる。
現代でもそうだろう。有名人を騙る儲け話にいとも簡単に乗せられてしまう。それによって本人は損害を被り、世の中の悪を助長することにもなる。いいことがひとつもない。肚で観ていないから、そうなるのだ。
では、肚で観るにはどうすればいいか。
ここで世阿弥の「目前心後」というものの見方が活きてくる。目で見ることのできない後ろは心で観るという意味もあるかもしれないが、要は自分のふるまいを冷静に観る心を持つということだろう。
「そんなこと、できるわけがないじゃないか」という声が聞こえてきそうだ。
でも、大丈夫。いつも心持ちの重心を後ろに置き、自分の言動を観察するように習慣づければいい。すぐにはできなくても、それを心がければ、いつかはそれに近づける。
おまえはどうなんだ、だって?
修行中の身であります。
(240727 第862回)
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