「幸せ」を求めて争う人間。「豊かさ」を求めて争う人間
東本願寺の前を歩いているとき、見つけた。
どうして世の中に争いごとがなくならないのか。それはだれもが幸せになりたいと願っているからだろう。しかし、幸せになりたいと思うことが悪いはずがない。問題は「自分だけ」「自分たちだけ」の幸せを願うことではないか。
そこで問われるのは、他者との意思疎通である。この世に価値観がまったく同じという人間はいないのだから、その溝を埋める努力が必要である。相手はどう考えているのか、なにを求めているのか。お互いに歩み寄りは可能なのか……。
それを探り、理解するために「対話」がある。人間の人間たる所以は「言葉をもっている」ということ。昨今の政治を見ていると、ひたすら相手を罵り、こきおろすことによって支持を得ている人が少なくない。しかしそれは対話ではない。ただの威嚇である。その先にあるのは憎しみの連鎖であろう。
東本願寺の前に、こういう言葉もあった。
思いをこえて生まれながら、なんでも思いどおりにしようとする私
この世に生まれてくるときは、宝くじに何百回も連続して当選するような低い確率をものにした。これは自分の思いをはるかに超えた、無為の仕業だった。ところが、この世に生まれ、自分という実体をもつと、人はなんでも自分の思いどおりにしようとする。
慧眼である。と言いたいところだが、それを見通せる宗教者といえど、その呪縛から逃れることはできないようだ。できるのであれば、本願寺が西と東に分かれることはなかったはず。
結局、「人間とはそういう生き物なのだ」ということを前提として、それらを少しずつ克服しようと努力し続けることが重要なのではないか。その過程にこそ、その人ならではの人生観が構築され、その果てにその人なりの幸福があるのだと思う。
(240818 第863回)
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