死者なればこそ、天にかなう道理を行えるのだ
『花や散るらん』より
葉室麟の小説『いのちなりけり』の続編『花や散るらん』から抜粋した。登場人物、元肥前小城藩士の牢人・雨宮蔵人の言葉だ。
江戸中期、武士の心得として記述された『葉隠』。
中でも有名な「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」という一節は、一見、死を美化するきらいがあり、戦時中も間違った解釈で使われたことで多くの若者たちが犠牲になった。
そもそもの『葉隠』は、命を粗末に捉えているのではない。
むしろ、「死」ではなく「生」を大切に思うがゆえの心得である。
「生きる」とはどういうことか。
それを問うことは「死に様」を問うことと同じであると『葉隠』は記す。
その命は何に従うのか。
社会のしがらみか、組織なのか、それとも、天の道理なのか。
いつの世も、問われているのは
「その選択(生き方)は天の道理にかなっているか」
ということなのかもしれない。
死んだ気になれば、何も恐れるものはない。
大事、小事にかかわらず、一度、死者の気持ちになって事にあたってみてはどうだろう。
今は亡きあの人なら、この自体をどう受け止めるだろうか、と。
(160907 第233回)