学問を為す要は、いかに喜び、いかに怒り、いかに哀しみ、いかに楽しむかというところにある
知識人、教養人であれば安岡正篤の名を知らぬ者はいないだろう。「心を養い、生を養う」としてまとめられた『安岡正篤一日一言』から、ある日の言葉を引用した。
人は自分のことはさておき、他人のことはすみずみまでよく見通せる生き物である。
あいつはこうだから、いつまでも変わらぬヤツめ、なんでもっとこうしない、ああしろ、こうしろと、他人を変えることばかり考える。
しかし、他人はあくまで他人。自分とはちがう人格をもっている。それは親兄弟とて同じこと。
自分を変えることもむずかしいのに、他人を変えることなどできるはずがない。
「学問は人間を変える」と安岡は言う。
しかも、人間を変えるような学問でなければ学問ではないと。
その人間とは他人ではなく自分のことであり、他人を変えようと思うならば、まず自分が変わること。
では、どうやって自分を変えるのか。
動物的感情むきだしの自分を人間らしく整えるのだ。
生まれたままの赤ん坊のように喜怒哀楽をそのままにするのではなく、人間としての喜怒哀楽の仕方を学問によって身につけよと、安岡は言っている。
「人は学問や修業をすることは喜怒哀楽をしなくなることだと勘違いするが、決してそうではない。それでは学問や修業というものは非人間的なものになってしまう」
今の学校教育は、安岡の案ずる非人間的なものになってはいないだろうか。
「学問というのは決して出世や生活のための手段ではない。何が禍であり何が福であるか、いかに始まりいかに終わるか、ということを知って惑わざるがためである」
安岡のこの言葉をかみしめたい。
(170407 第303回)