生きることと引き替えに、現代人は、際限もないうるささに耐えている
ギタリストとジャーナリストの甘く切ないラブロマンスを描いた平野啓一郎の『マチネの終わりに』より抜粋。
知的な言葉の連なりに、アコースティックギターの硬質で艶のある音色が絡み合いながら物語は進む。互いに思い合う2人を運命は無常にも引き離そうと、それぞれの時間をシンコペイトしてゆく。
再読しても、読み終えるのをためらいながら行きつ戻りつしてしまう。
「生きることと引き替えに、現代人は、際限もないうるささに耐えている。音ばかりじゃない。映像も、匂いも、味も、ひょっとすると、ぬくもりのようなものでさえも。
……何もかもが、我先にと五感に殺到してきては、その存在をめいいっぱいがなり立てて主張している」
主人公のギタリストの心情である。
現代はあまりに騒々しい。
にもかかわらず、これでもかと追い打ちをかけるように社会は情報を垂れ流す。
壊れたラジオのように、延々と。
「人類は今後、未来永劫、疲れた存在であり続ける。
─誰もが、機械だの、コンピューターだののテンポに巻き込まれて。五感を喧騒に直接揉みしだかれながら、毎日をフーフー言って生きている。痛ましいほど必死に。
そうしてほとんど、死によってしかもたらされない完全な清寂。……」
と、ギタリストは現代人の姿を炙り出す。
うるさくなればなるほど、音もなく、映像もなく、匂いも味も、そしてぬくもりも、一切が消えてなくなってゆく。
静寂の中にこそ、本当の音も映像も匂いも味も、ぬくもりだってあるというのに。
世の中の騒々しさは、現代人の心の現れ。
雑音にまみれた心は乱れ、落ち着きを失ってゆく。
うるささに耐える必要はない。
静けさを求めさえすれば、必ず求めるものは見つかるのだから。
(170819 第345回)