偉大な思想などにはならなくともいいから、偉大な質問になりたい
詩人、俳人、歌人、作詞家、劇作家…と、肩書きをあげたら切りがないほどの多才ぶりで、一陣の風となって去っていった寺山修司。死してなお異彩を放つちつづける寺山の、遺していった言葉には未だ彼の魂が宿っているようだ。この言葉もそのひとつ。
以前取り上げた、まどみちおの言葉にあった。
「世の中に「?」と「!」と両方あれば、他にもうなにもいらん」と。
学びの楽しさは、「?」が「!」に変わるとき。
問いが驚きをもって氷解したときではないだろうか。
人間、知ってしまったものには興味は失せる。
とりわけ、変化のないもの、深みのないものには驚きも感動も、喜びもない。
飽きるというのは、そういうこと。
裏を返せば、変化や奥行きのあるものは飽きない。
それは自分自身であってもそう。
自分に飽きてはしょうがない。
「変わった人」というのは「変化ある人」
つまり、「?」のかたまりだということ。
未知なる「!」がたくさんつまっている。
禅や仏教の世界では悟ることをよしとしない。
悟った人をブッダ(仏)というのだから、それはそうだろう。
「お陀仏」となってはいけないのだ。
驚きや感動に出会えば、体も心も喜びで満たされる。
そういえは、122歳まで生きたフランス人女性の長寿の秘訣は「笑うこと」と「退屈しないこと」だとか。
寺山修司のいう偉大な質問にはなれなくとも、内と外の世界を問い続ける「?」の人でありたい。
(180429 第425回)