自己の実感をいつわることは、向上の放棄にほかならない
以前にも何度か紹介したことがある、渡部昇一氏の言葉をふたたび。これは昭和51年、氏がまだ46歳の時に刊行された『知的生活の方法』からの抜粋である。ベストセラーとなったこの著書は、氏が大学時代に通読し、後に翻訳にも関わったP・G・ハマトンの『知的生活』に影響を受けているところもあるようだが、それにしても氏の読書量は半端ではない。
「自己の実感をいつわる」とは、どういうことか。
渡部氏はこう述べる。
「ほんとうにおもしろいと思わないものを、おもしろいというふりをすること」
「ふり」にも良い「ふり」と悪い「ふり」がある。
大切な人を喜ばせたいがゆえにする「ふり」は、悪いものではない。
たとえば、余命何年などという人に、あえて実感を伝える必要はないだろう。
渡部氏の言う「ふり」というのは、昨今の「他に迎合」することを指している。
みんながいいと言うから運動したり、ベストセラーだから読んでみたり、食べるものも着るものも、何をするにも星の数や他人のコメント頼りでは、感受性が鈍っていくと言っているのだ。
あげく、責任転換だけ立派になってしまっては意味がない。
そんな人の、なんと多い世の中であろうか。
「自分の感受性くらい、自分で守れ。ばかものよ」と、茨木のり子の声が聞こえてきそうである。
なんでもかんでも人に合わせていては、自分を見失ってしまう。
たとえ同じものに共感を覚えても、まったく同じではないはず。
どの部分のどの音に感じたのか、どんな風に美味しいのかと、受け取り方はさまざまだ。
あるいは、時を経て、以前には感じなかった良さを感じることもあるだろう。
「ピンときた!」という感覚。
琴線に触れたその瞬間こそ、そのものを知りたい、得たいという欲求が高まる。
欲求が高まれば、自ずと向上心は高まってゆく。
他人の感覚に依存し、自己の実感をいつわっていては向上心は高まりにくい。
まずは、自分の感受性は自分で守ろう。
(180917 第470回)