「忍」とは、ありのままを確認し、それに徹すること
つい最近も取り上げたばかりの松原泰道老師の言葉をふたたび。同じく著書『法華経入門』から抜粋した。文字というのはおもしろい。それぞれに意味があるのはもちろんだが、使い方によって解釈が変わる。法を説いた経典は、一般的な解釈とは一味違う。
「忍」からイメージするのは、忍耐や我慢。
苦しみや辛さをじっと耐え忍ぶことを想像する。
ところが、大乗仏教の「忍」の解釈はそうではないという。
松原老師いわく、
「忍は認と同じで、『金剛経』では認める作用としています。確認がそうであるように、認めて確かに知り、その時点で必要な行動をするのが、認であり忍です」
信号機が赤なら止まり、青になれば動き出す。さらに言えば、青であっても前後左右を注意しながら進む。確認の「認」ができてはじめて「忍」を実践できるということ。
物事がうまくいかないときほど、人は他人と比べがちだ。
しかしそれは、自ら苦しみを倍増させているようなもの。
ピンチはチャンスというように、ピンチであればこそ気づくことは多い。
病気になったからこそわかる、人の痛みや優しさ。
順調なときには思いもよらない、考え方や生き方の発見。
置かれた状況を確認し、それを受け入れることで、智恵が生まれる。
こんなんですけど、何か? と開き直れば、どんな状況も楽しめるだろう。
要は、楽しんだもの勝ち。
娑婆即寂光土(しゃばそくじゃっこうど)
苦しみに満ちたように見えるこの世界も、知恵によって光に満ちた浄土となる。
「忍ばなければ生きていけない場という考え方から、事実を確認することによって、きわめて楽しく生きていける世界という考え方に変わっていきます」
「忍」を受け身と捉えるか、能動的な働きかけと捉えるか。
さて、あなたはどっち?
(181009 第477回)