陰陽なるものは、条理なり。条理なるものは、本義を草木の理において取るなり
以前にも紹介したことがある。江戸中期の自然哲学者、中でも異端児だったであろう三浦梅園の言葉をふたたび。梅園の自然哲学論は、読めば読むほどおもしろい。右を向けと言われれば左に、左を向けと言われれば右に、いつもみんなと違う方向を見ていたのじゃないかと思うほど、視点が反対の方を向いている。ちなみに、“みんな”というのは世間のことで、梅園の見ていたのは“天地自然”のこと。
陰陽といえば東洋思想の基本中の基本。
「陰極まれば陽となり、陽極まれば陰となる」のあれである。
では、その陰陽とは何か。
梅園いわく、「ものの条理」。
では、条理とは何か。
これまた梅園いわく、「草木がなる理(すじ)」だと。
では、「条」とは、「理」とは何か。
いわく、
「条とはほんらい木の枝のことで、理とはその筋のこと」
「条とは守備が貫通し、理とは左右にはっきりさけるもの」
一本の幹が根をだし票(こずえ)をだし、根はつぎつぎに分かれ、こずえはつぎつぎと分かれる。その分かれるさまを仔細に見れば筋があり、その筋は何のための筋かとみれば、気がその筋にしたがって運動し、気の運動によって形がなる。
そんなの当たり前じゃないか、と思うだろう。
ところが、その当たり前を複雑にしているのが人間なのだ。
果実がなるには気がとおる根や枝(条)と筋(理)が必要。
その根と枝と筋は幹により、幹のもとをたどると一粒の種。
では、種はどこから?
そう、果実からである。
つまり、時期の違いはあれど、実る果実はすでにそのものの中に発芽する種を持っているということ。
誰もがみんな、すでに自分だけの果実をもっているということだ。
種を撒く場所さえ間違えなければ、自ずと芽は出、果実は成る。
日向がいいのか、日陰がいいのか、肥沃な土地がいいのか、それとも乾燥地帯がいいのか。
まずは種に聞いてみよう。
(181024 第482回)