「お前にサンは救えるか(モロ)」「わからぬ。だが、共に生きることはできる(アシタカ)」
ジブリ映画『もののけ姫』より。山イヌのモロが主人公のアシタカに自分たち山イヌが育てた人間の女の子、サンを救えるかと問う場面である。前回に続き、鈴木敏夫氏と禅僧との対談集『禅とジブリ』から抜粋した。龍雲寺住職、細川晋輔和尚が指摘したこの場面の感想は、まさに炯眼。ここに注目するとは、やっぱりお坊さんだ。
細川和尚は、この場面を見てどう思ったか。
「主人公なら、『救う』と言ってほしいじゃないですか。でも『わからぬ』と。そのあと続けて、アシタカは『だが、共に生きることはできる』と言う。これはまさに達磨さんの言う『不識』じゃないか、と」
梁の武帝に「仏教の第一義は何か」と問われた達磨さんは一言、「不識(知らぬ)」と応えた。
さらに続けて「それではお前は一体何者なのだ」と、武帝は問うた。
達磨さんは、またもや「不識(知らぬ)」と一言。
これが、「不識」の出所である。
細川和尚は東日本大震災のあと、被災者の方から「死んだあの人に会えますか」と訊かれ、「会えます」とも「会えない」とも言えなかったという。
だからこそ、アシタカが「わからぬ」と言い切った強さが身にしみたのだそうだ。
今の世の中は、どんなものでも数値化され、パソコンを開けばすぐに答えは見つかる。
だからだろう、現代人はなんでもかんでも明快な答えを求めようとする。
そこに、生きづらさが生まれているような気がしてならない。
何もかもがデジタル化され、機械化されてゆくのに、人の生き死にはあやふやなまま。
今日は元気に生きていても、明日もそうだとは限らない。
そこに不安が生まれるから、先回りしていろいろ知ろうとするのだろう。
それが悪いというわけではないけれど、世の中には答えにならないものはたくさんあるし、矛盾することもたくさんある。
だからこそ、「わからない」と言い切る強さは、生きていくうえで大きな力になるのではないか。
わからないからこそ人生。
わかってしまっては、人生という旅を楽しむことはできない。
人生は、一期一会、日日是好日、ケ・セラ・セラ・・・なのに。
だれかを救うことはできなくても、寄り添い、共に生きることはできる。
すべてをわかってしまうより、わからないほうが、幸せなことだってあるのだから。
(181118 第490回)