坐禅はゴミ捨て場
龍雲寺住職の細川晋輔和尚の言葉を紹介。細川住職は、第一次仏教書ブームの火付け役となった松原泰道老師のご令孫。祖父に倣い、禅仏教をわかりやすく世に説いている。坐禅をこれほど率直に言い表す言葉もないのではないか。
断食や断捨離しかり、坐禅や瞑想がこれほどブームなのはなぜなのか。
余分なものやいらないものを捨てて、すっきりする。
これが本来の目的だろう。
ところが、実際は、心の奥深くで何かを得ようと考えている自分がいることに気づく。
何かが得られるのではないか、悟りのようなものがあるのではないか、と。
45日前後の長断食を2度も行った陶芸家の北川八郎さんは、こう言っていた。
「1度目の断食は、ただただ苦しいだけで終わりました。それは、何かが得られるのではないかと思って、日々の変化を記録するためにカメラや日記を持ち込んでいたからです。
2度目の断食は、一切、何も求めなかった。記録するものも持ち込まず、ただ座っていました。すると、ある時期を過ぎたころから不思議なことが次々と起こり始めたのです」
この世の真理を体得した北川さんは、断食後、陶芸家への道を与えられ、その後も数々の勉強会やセミナーでの講師、ラジオ番組のポッドキャストなども務めている。断食中に体得したことを書いた著書も、いくつかの大手企業が数千冊もまとめ買いしているそうだ。
まったく予想だにしなかった展開に、北川さん自身が驚いているという。
すべては、何も求めなかったから。
ただ、心身をその場にあずければいい。
得ようと思えば思うほど得られず、手放せば手放すほど入ってくる。
それが、この世の真理なのだろう。
呼吸がそうであるように、吐いて(呼)から吸うのが、すべてのものごとの本来の姿。
坐禅は得るためにあるのではなく、出すためにある。
そう思えば、全身の力も抜けそうだ。
ざわざわと心が波たち、体が窮屈になってきたらデトックスの合図。
ゆっくりと呼吸を繰り返し、余分なものが溜まっていないか心の中を覗いてみよう。
(181202 第493回)