何者になれなくても、人は生まれてきた意味がある
数年前に劇場で公開された映画『あん』で、この言葉を知った。あん作り名人のハンセン病患者、徳江さんを演じた樹木希林さんが、主人公のどら焼き屋の店長に綴った手紙を読み上げるシーンだった。この世から去ったあとのことだ。どの言葉も取り上げたいほど胸に響いて、今も忘れられない。
なぜ人は生まれてくるのだろう。
やがて死を迎えるというのに。
生まれる時代も、環境も選ぶことはできず、本意ではない状況に置かれ、苦しい人生を歩む人もいるというのに。
それなのに、生きていくことに何の意味があるというのか。
本欄で、なんども、なんども取り上げた命題である。
しかも、ここ数回、同じようなことを書いている。
それというのも、また一年が終わろうとしているから。
「私たちはこの世を観るために、聞くために生まれた。この世の中はただそれだけを望んでいました。だとすれば、教師になれずとも、勤め人になれずとも、この世に生まれてきた意味はあるのです」
徳江さんの言葉だ。
鍋の中で、ぐつぐつと音をたてるあんの、あずきの一生に耳をかたむける徳江さん。
木々の声を聞き、月と語らい、鳥や虫たちの言葉を伝える。
若い頃にハンセン病にかかり、療養施設での生活を強いられた徳江さんには、それが世界のすべてだったのだ。
徳江さんのように、世の中の役に立ちたいと切に願っても、叶えられることはなく、この世を去っていった人は、どれほど多かったことだろう。
私たちはこの世を観るために、聞くために生まれた。
この世は、ただそれだけを望んでいた。
だとしたら、
自分の目で観て、聞いた(感じた)世界を、自分の言葉で、かたちで表せばいい。
季節はめぐる。
いのちの循環である。
寒い冬を乗り越えれば、あたたかい春はやってくる。
生きていればこそ感じる、春夏秋冬。
そのことを肌で、心で、感じてほしい。
(181224 第499回)