「念」と「忘」とが協力し、一体となって「解」が得られるのである
ちょっと前にも紹介した、ロボット博士の言葉をもうひとつ。森博士の考察はおもしろい。科学畑でありながら、否、科学畑だからこそ、視点が高くなったり低くなったり、大きくなったり小さくなったり自由自在である。凡人が見落としてしまう塵芥に宝玉を見出すのはお手の物。この言葉も前回同様、著書『退歩を学べ』からの抜粋だ。
「念」という字を、じっと見てほしい。
どうだろう。
「今」に「心」が寄りはしなかったか。
そう、念というのは、今という瞬間に心を寄せること。
文字がそれを語っている。
となると、次は「忘」である。
言うまでもなく、忘は「心」の上に「亡」と書く。
心が土台になっているのは、どちらも同じ。
つまり、ある一つの問題が、どんな瞬間も頭から離れないことが「念」であり、それが亡くなった状態が「忘」になる。
この念と忘が次なる「解」へとつながっていく。
「例外なく、創造的な『解』というのは、そのことを忘れていた時に、天啓のようにふっと向こうからやってくるような感じで、しかも外部の刺激(見たとか、つまづいたなど)がきっかけとなって、湧き出るものである。それはほんの一瞬である」
誰しも一度や二度は、こういう体験をしているのではないか。
強く思っていたときには何も得られず、意識から離れたときに思わぬところから答えを得る、ということはよくあることだ。
万有引力の法則を導き出したニュートンも、トンネルダイオードを発見した江崎玲於奈博士も、竹に当たった小石の音を聞いて悟りを得た香嚴和尚も、世にある発明、発見、悟りなどの多くは、忘れた頃に偶然向こうからやってきたもの。
これを、森博士は「ねん・ぼう・かい」のプロセスと定義している。
忘年会ではない。
「ねん・ぼう・かい」である。
創造的なアイデアがひらめくには、「念」→「忘」→「解」の順序が必要だと。
このプロセスは創造的なアイデアだけとも限らない。
心に描いた思いは、強ければ強いほど叶いやすい。
しかし、それも「忘」という深層心理の中で熟成させる時間が必要。
求める答えや、どうしても得たいものがあるのなら、肩の力を抜き、リラックスしてそのことを忘れてしまったほうがいい。
(181229 第500回)