伝統を学ぶことは、後ろ向きではなく前を向くこと
古より伝えられる日本の伝統文化や行事、とりわけ家庭内での行事を伝える教室「室礼三千」を主宰する山本三千子さんの言葉を紹介。伝統行事にみる日本の心は、想像以上に奥深い。
正月の初詣。
節分の豆まき。
桃の節句に子どもの日など、日本には古くから伝わる伝統と、それに伴う行事がある。
日本だけではない。
世界中、どの国にも伝統行事はある。
しかし、その伝統は、時を経るごとに本質からかけ離れ、表面的な形だけのものになってしまってはいないだろうか。
こんなことがあった。
ある料理店で、見目麗しい日本的なご婦人が、これまた見目麗しく一人で食事をしていた。
なんて素敵な人だろうと釘付けになっていたら、ご婦人は手洗いに席を立ち、ほどなくして戻ってきた。
入れ替わるように手洗い場へ入るや、仰天した。
洗面台のまわりは水浸しで、トイレットペーパーは無残にも引きちぎられ、だらしなく伸び垂れ下がっていたのだ。しかも、ペーパーの破片がはらりと足元に落ちている。
その店がいつも清潔にしているのを知っているし、オープンして間もない時間で客も少なく、彼女以外に手洗い場へ立った人はいなかった(と思う)。
席へ戻ったあとに見たご婦人はもう、見目麗しくもなんともない、ただの婦人だった。
彼女の仕業かどうかはわからない。
けれど、日本には相手のことを慮るという素晴らしい文化が息づいていたはずではないだろうか。
トイレに入れば、後から入る人のことを考えて、綺麗に使おうと考えるだろうし、ペーパーを三角に折らずとも、綺麗に切り揃えることはできるはず。
水回りも、なるべく飛び散らないようにしたり、飛び散った水は何かで拭き取ることもできるのではないか。
さて、このような「小言」は、後ろ向きと言えるだろうか。
祖父母や両親など大人たちから教えられたことや、伝えられてきたことは、社会の中で生きていくための処世術とも言える。
こと日本においては、伝統文化の中に「察する」という思いやりの心が組み込まれている。
それは、いかに生きていくかという前向きの精神とも言えるだろう。
故きを温めて新しきを知る。
なんとなく見たり聞いたり行ってきたことには、すべてに意味があり、歩む道を照らしてくれる。
(190120 第506回)