きれいと美しいはちがう
掘桂琴
不世出のかな書きと言われた女流書家、堀桂琴の言葉を紹介しよう。壮絶な創作魂をもつ女流剣士のような桂琴は生前、自分にも他人にも厳しいことで有名だった。それはそうだろう。居候していた師の家の家事や雑事、7人の子供の世話など一切をこなし、稽古に励むのは家族が寝静まった夜中だったというのだから。だからこそ響く一言である。
「きれい」と「美しい」のちがいは何か。
堀桂琴いわく、
”きれい”というのは整然と植えられた松。
”美しい”は断崖絶壁に生える松。
同じ松でも、どこに立っているかで生命力はまったくちがうと言うのだ。
たとえ姿形は整っていなくても、自然体であるがゆえの美しさがあるのだと。
どんな生き物も、温室育ちより雨ざらしの野生の方がたくましい。
つねに生きるか死ぬかの瀬戸際にいるからだろう。
与えられ、守られている環境ではないからこそ、自らを守るため、謙虚に学び力をつけていく。
自力で立ち、必死で生きようとする姿は、誰の目にも美しく写るのではないか。
きれい事は、だれでも言える。
美しさは、姿が語る。
ほんとうの美しさは、言葉以上に行動に表れるもの。
自分に正直に、媚びず、へつらわず、謙虚に学び続ければ、魂が磨かれ、飾らずとも内側から光が溢れだす。
(190207 第511回)