湖に浮かべたボートを漕ぐように、人は後ろ向きに未来へ入っていく
「風立ちぬ、いざ生きめやも」の一節で有名な、フランスの大詩人、ポール・ヴァレリーの言葉を紹介。音楽などの芸術分野にとどまらず、哲学、宗教、歴史など、多彩な領域で才能を発揮した知の巨人であるヴァレリー。詩人としての印象が強いが、発表した作品は100篇にも満たないという。どれだけの才能であったかうかがい知れる。
物事がうまく進んでいるときは、何も恐れずとも、勢いに乗って進んでいくことはできる。
しかし、問題は、物事が停滞しているときや、逆風に煽られているとき。
人は何か、手がかりとなるものを求める。
一人になることを恐れ、置いてかれないようにと、大船に乗り込んでしまうことがある。
その大船は、どこからきたのか、どこへ向かうのかもわからなくても、とりあえず、大勢でいれば安心とばかりに。
だれかといても、だれと歩くにしても、歩くのは自分。
茨の道だろうが、砂利道だろうが、その道を選んだ以上、自分の足で歩かねばならない。
歩き方を教えてくれるのは、その昔、同じような道を歩いたであろう先人たち。
後ろを振り返れば、無数の死者たちの足跡が残されているはず。
僕の前に道はない
僕の後ろに道はできる
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守ることをせよ
常に父の気迫を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため
高村光太郎の『道程』である。
自然を父とし、その教えを胸に歩き続けることを歌っている。
歩き続けるために、自然は何を教えているのか。
死者たちは、われわれにどんな手本を示し、どんな課題を残したのか。
自ら手漕ぎボートを漕ぎ、まっすぐ進むためには、進む方向とは反対側、後ろ向きで漕がねばならない。
過去にこだわるのではない。
今を生きるために、過去を知るのだ。
まだ見ぬ道をつくるために、後ろに広がる死者たちの道を見つめてみよう。
(190225 第516回)