人は本当は何もわかっていない
敬愛してやまない数学者、岡潔の言葉をふたたび紹介しよう。このたびの新元号「令和」の発表を目にした時、なぜか頭に、この世界的数学者である岡潔が去来した。うすれゆく日本人の情緒に警鐘を鳴らし続けた岡の、「人の中心は情緒である」というひとつの定義がはっきりと啓示されたような気がしたのだ。
幼いころ「不思議」でいっぱいだった世界は、成長するにつれ「不思議」ではなくなってゆく。
人として生きていくためには、考え理解する能力が求められるからだろう。
それゆえ、「不思議」なことは封印せざるを得なくなる。
そしてしだいに、
「不思議」だったものは「当たり前」に変わってゆく。
ものをひとつ覚えていくほどに、偉くなったような気がした若年なころとは打って変わって、ある程度人生を生きると、知れば知るほど知らないことが多いことに気づく。
自分にとって当たり前なことも、他人にとっては当たり前でないことや、誰にとっても当たり前なことは何ひとつないのだということを。
「本当はわかっていない『自分』や『自然』について、勝手に『こうだ』と決めて、わかっていると思い込む中から個人主義や唯物主義も出てきました。それが、生きていることに対する不平不満をずいぶん生んでいるようなのです」
こういった思い込みを消してしまえば、もっと気が楽になるだろうと岡は言う。
いろいろ知っていると思っていても、付け焼き刃を落としてみれば、さっぱり何も残らないのだからと。
思わぬ出来事に遭遇したとき、思わぬ自分と出会うことがある。
だとすれば、自分の一番の理解者は自分であると同時に、まったくの他人であることも事実であろう。
自分のことすらわからないのに、他人のことなどわかるはずもない。
自分は何もわかっていないと思うからこそ、寄り添い、分かち合おうと思うのではないか。
岡潔の論法で言えば、世の中に蔓延する「ドーダ!」の自己顕示欲や「わかってほしい」「認めてほしい」という承認欲求は、自分は何でもわかっているという傲慢さが生み出した個人主義、唯物主義の成れの果てとも言える。
世界は不思議で満ち溢れ、当たり前は当たり前でないと気づいた時、
本当は何もわかっていなかったのだと、
他人にも自分にも、森羅万象すべてに謙虚な気持ちになれるだろう。
(190402 第527回)