御先祖になる
日本民族学の開拓者、柳田國男の言葉を紹介。著書『先祖の話』の中の一話にこのタイトルを見つけ、一目で釘付けになった。御先祖になる? どういう意味かと文章に目が走った。一族のご先祖様は誰かということも、自分自身もその範疇であるということも、なるほどそうかと腑に落ちる。
「御先祖になる」とはどういうことか。
たとえばこういうことだ、と柳田は言う。
たとえばここに体格のしっかりした、
眼光さわやかで物わかりのよい少年がいたとする。
あいにく跡取り息子ではない。
が、そういう子は周囲も捨て置かず激励する。
今のように早く立派な人になれという代わり、
「精出して学問にはげみ御先祖になりなさい」
と言って聴かせたのだそうだ。
まだ長兄だけが重んじられ、次男以下の男子は冷や飯を食わされていたころのこと。
だから次男三男はがんばった。
家督に依らず、立身出世をめざした。
明治年間の新華族の半分は、そういう人たちであったという。
「生きても死んでも、木というものは立派だ」
とは、最後の棟梁西岡常一の弟、楢二郎の言である。
幸田文に、そう語ったそうだ。
どんな良材、強材であろうと木には木の寿命があり、寿命がつきれば死ぬ。
寿命を使いつくして死んだ木の姿は、生きている木にはない、また別の貴さ、安らかさがあるのだ、と。
楢二郎に死んだ木を見せてもらった幸田文は、生きている木が浮き立ってきたという。
「生きつくしたものを見たら、生きているということが鮮明になった」と。
生きても死んでも立派。
それが、「御先祖になる」ということではないか。
天から与えられた天命を、生かしつくし生命に変えるのは自分自身。
その生命を御先祖となって次につなげる。
家族がいてもいなくても、命を生かし本分を全うすれば、気づかぬうちに誰かの生きる指針になるような、尊い御先祖になっているかもしれない。
そう思えば、ゆめゆめ恥じるような生き方はできない。
(190422 第532回)