老樹と、中年壮年の木と、青年少年の木と、そして幼い木と、すべての階層がこの林では揃って元気なのです。将来の希望を托せる、こういう林が私たちには一番、いい気持ちに眺められる林なんです
樹木に会いに北海道から屋久島まで旅した幸田文の、樹木をめぐる紀行文『木』からの抜粋である。「ひのき」の章にあった。森林を案内してくれた材木業のひとの言葉だった。長年、木とかかわり、森林を見つづけてきたひとの言葉だけに意味深い。
「自分の時代を愛していない人がよくあります」
須賀敦子のエッセイ『現代を愛するということ』は、こうはじまる。
「あのときはこうだった」「昔はよかった」と嘆く人たちへの警鐘だろう。
いい思い出があればあるほど、人はそのときを引きずり、心を置き去りにする。
そんな人たちに、須賀敦子は「あらゆる世代は、それぞれの時代を愛すべき」という。
今をおざなりにするのは人間だけ。
過去にしばられ、未来を憂う。
他のいきものなら、そんな時間の無駄づかいはしない。
与えられた場所で、精一杯生きる。
なんとか生きのびようと、命をつなげることに賢明だろう。
木にもエリートというものがあるらしい。
エリートの木の条件は、それ一本だけよいのではなく、周りに質のいい木、お供の木が何本も揃っていなくてはならないという。
樹齢樹勢などいろいろな定めがあることはもちろん、親衛隊のような引き従うものがあってこそのエリートなのだと。
その大樹を中心としたエリート集団は、人目をひきつけてやまないそうだが、それ以上に魅了する格別の集団があるのだとか。
それが、すべての世代がそろって健全な林。
老樹も中年壮年も青少年も幼い木も、それぞれがみんな健やかで立ちならぶ林は、将来性があるとのこと。
木はだれに教えられることもなく、命をつなぐために各世代と手を取り合っているということだ。
家族にしろ、国にしろ、どの世代も元気であれば未来は明るい。
どの世代も、自分の時代を愛してほしい。
自分の時代を愛せるような、そんな世の中になってほしい。
自分も元気で周りも元気。
心おだやかで気持ちよく生きるには、それが一番いいじゃないか。
(190428 第534回)