自分の中に一人の一番きびしい教師を育てえたとき、教育なれり、という気がします
詩人、茨木のり子の言葉を紹介。ダメな理由を時代のせいにするなと、「自分の感受性くらい自分で守れ」と詩に読んだ彼女。戦後の混乱の中にいちばん美しい青春を置き去りにしなければならなかった当時の若者たちこそ、そのやるせなさを時代にぶつけたかったにちがいない。悩み、ぶつかり、もがき苦しむ中で見出した生きる知恵は、どんな時代にも通じる普遍の真理がつまっている。
大人の言い分に反発を覚えるのは、若者の特権だろう。
ああ言えばこう言って、素直に聞き入れることをしない。
反抗ばかりして、素直じゃない子供は、大人から嫌われる。
「素直でいい子」だけが、ちやほやされる世の中。
だから多くの子供は、大人の顔色をうかがいながら「いい子」を演じるのだ。
「素直ないい子」とは、大人の視点。
大人の視点からはずれた「素直じゃない悪い子」は、ほんとうにそうなのか。
否、彼らこそ「素直な子」だと思う。
自分の心に正直がゆえに、理論武装した大人の言葉に違和感を覚え、反発しているだけなのだから。
もちろん、未熟なだけに、心に正直であれば間違いも犯す。
けれど、自分で犯した間違いに気づいたものは、他人や何かのせいにはしない。
自分の未熟さを反省し、間違いから学び、次に活かす知恵をつける。
教育とは、本来、そういう彼らを守り、必要なときに手を差し伸べるものではないだろうか。
「もし、ほんとうに教育の名に値するものがあるとすれば、それは自分で自分を教育できたときではないのかしら」
教育とは手取り足とりやってくれるものではなく、自分自身で学んでいこうとする能動的なもの。
学校はそのための、ほんの少し手引きをしてくれるところに過ぎないと、茨木のり子は言う。
子供は生命力の塊。
ころんでも、ぶつかっても、失敗しても、間違っても、なんとか生きようと立ち上がる。
大人は風であればいい。
彼らの力を信じ、ときに優しく、ときに厳しく、付かず離れず。
風になって、大空を泳がせてあげよう。
(190505 第536回)