家は一年、木は十年、人は百年
ふたたび宮本輝の『流転の海』から。主人公、松坂熊吾のセリフである。破天荒なのに、どうしてこうも本質的な言葉ばかりが出るのか。いや、破天荒ゆえに酸いも甘いも、善も悪も知り尽くしているのだろう。熊吾のような豪快で魅力満載な人はいないものか。
この言葉の出所は、おそらく中国古典の『菅子』だろう。
一年の計は、穀を樹うるに如くはなし。
十年の計は、木を樹うるに如くはなし。
終身の計は、人を樹うるに如くはなし。
一樹一穫なる者は穀なり。
一樹十穫なる者は木なり。
一樹百穫なる者は人なり。
そう、国家百年の計である。
国家というと途方もないが、個人にあてはめれば、言葉の意味もぐっと近く。
熊吾は息子の伸仁に言って聞かせた。
「家を建てるのに一年かかることはわかる。木がいちおう木らしい風格が出るのに十年かかることもわかる。しかし、人生五十年ちゅう言葉がある。百歳まで生きる人間は稀じゃっちゅうのに、なぜ『人は百年』と言うのか……。立派な人間が育つのに百年もかかっちょったら、みんな死んでしまう。それなのに『人は百年』という諺を昔の中国人は残した。
……ひとりの人間には必ず父と母がおる。その父と母にも、それぞれ父と母がおるんじゃ」
戦後間もないころの話である。
今のように、人生百年時代の世の中ではない。
しかし、『人は百年』の真意は今も昔も変わらない。
人は一人で生まれ、一人で死んでいくことは世の定めだが、この世に誕生するには父と母の存在なくしてありえない。
その父と母も、それぞれの父と母の存在なくして生まれなかった。
人ひとりの中には、膨大な数の人の血が流れているのだ。
一人ではあっても、一人ではない。
一人の中には、無数の人の生き様がつまっている。
無数の思いがつまっている。
そして自分の思いも生き様も、子々孫々へ受け継がれてゆくだろう。
自分の人生でありながら、自分だけの人生ではありえないことを、熊吾は伝えたかったのだろう。
人生がいかに、人知を超えたものであるかを教えたかったのに違いない。
一代で築き上げた城もある。
一代では築き上げられない城もある。
いずれにしても、人ひとりの力だけで及ぶことではないはずだ。
善行にしろ悪行にしろ、自分だけがあの世に持っていくのではない。
今生の行いはすべて、子々孫々に受け継がれ、やがてまた、生まれ変わった自分の元に還ってくるのではないだろうか。
(190618 第549回)