3つの醜い真実よりも、ひとつの美しい嘘を
フランス・ルネサンスを代表する作家であり医師のフランソワ・ラブレーの言葉を紹介。宮本輝の『流転の海』シリーズ、第5部「天の夜曲」のあとがきに引用されていた。小説の出来事がすべて実際にあったかどうかはあえて語らないと述べ、宮本氏はラブレーのこの言葉を引いたのである。
「嘘つきはドロボウのはじまり」と、人は教えられる。
だから、嘘をつくのは良くないことと、人は真実を語ろうとする。
もちろん、嘘はいけない。
人を傷つけ、悲しませる嘘は。
けれど、真実を語ることだけがいいかと言うと、そうとも言えない。
「嘘も方便」とあるように、人を癒やし、なぐさめる嘘もある。
知らなければ良かったという、人を傷つける真実だってあるだろう。
人は嘘をつく生き物。
生涯、ただの一度も嘘をつかない人は、おそらくいない(はず)。
そもそも、何が真実かなんて、誰にもわからない。
わからないからこそ、人は生きていけるのではないか。
自分が真実だと信じていれば、それは生きる拠り所になる。
たとえ偽りであったとしても。
世の中、キレイ事ばかりではすまされない。
現実を直視し、醜い真実を知る必要もある。
ともすると、現実世界に美しい真実などないのかもしれない。
だとしたら、なおさら美しい嘘は必要ではないか。
『赤毛のアン』の主人公、アン・シャーリーは、その典型だろう。
生まれてすぐに両親を亡くしたアンは、知人の子守や孤児院暮らしで辛い幼少期を送った。11歳でカスバート兄妹に引き取られるまでの辛苦は並々ならぬものであっただろう。それでもアンは、天性の豊かな感受性と想像力で苦しみや悲しみを喜びに変えていき、自ら人生を切り拓いて幸せを手に入れのだ。
アンでなくとも、人は誰しも大なり小なり自らを騙しながら生きている。
自分をだましだまし、「まだまだ」「なんのこれしき」と、挫けそうな自分を奮い立たせながら、明日を生きるために、脳を騙しながら生きているのではないか。
真実があれば虚構もあるのが現実世界。
その矛盾を、どうバランスを保ちながら生きてゆくのか。
フィクションだろうがノンフィクションだろうが関係ない。
美しい嘘の世界を楽しむことができれば、人生は輝きに満ちるはずだ。
(190624 第551回)