一日に一つでも、爽快だ、愉快だと思えることがあれば、それで「この日、この私は、生きた」と、自ら慰めることができるのではないか
経済小説の草分け的存在である小説家、城山三郎の言葉を紹介。東京裁判で唯一文官として絞首刑となった元首相、広田弘毅の生涯を描いた小説『落日燃ゆ』を知っている人も多いはず。この言葉は、城山氏の造語「一日一快」を表したものだ。連載コラムまとめた『無所属の時間で生きる』からの抜粋。
「無所属の時間」とは、城山氏いわく「余暇の時間」を指す。
組織に属しているか否かを超え、余暇時間である無所属の時間を、いかに過ごすかで人生はいかようにも変わる、と氏は「あとがき」で述べている。
「ふくれ上がった無所属の時間の中に、為すこともなく置いておかれるのか、無所属の時間でどう生き直すのか、どのように生を充実させるか、その辺のところを、いろいろ探ってみたいと思った」
コラムを書いた動機である。
無所属の時間の使い方は、顔つきにはっきり出るという。
ある商社のトップの話である。
海外赴任する社員たちに、同行する妻たちと一緒に赴任前の講習を受けてもらった。
そのときの夫人たちの顔と、数年後に帰国したときの顔が、2通りにくっきり分かれていた。
一方は、いきいきした顔で、
もう一方は、締まりのない顔つきになっていた。
なぜか。
いきいきした顔の夫人たちは、赴任先で現地の料理や民芸、歴史などを学び、その地にとけ込んで暮らしていた。
締まりない顔の夫人たちは、毎日のようにゴルフや麻雀など、遊びにふけっていたという。
人間、こうまで変わるものかと、その人は驚いたそうだ。
なるほどと膝を打つ城山氏。
「この日、この空の下に在るこの私を、かけがえのないものとして前向きに受け止めていたか、どうか」
そのことを実感するかしないかで、人生は大別されるのだと合点した。
しかしそれも、四六時中である必要はない。
一日一快。
一日を振り返って、ひとつでも爽快、愉快だと思うことがあれば、それでよし。
「こうであらねば」を一つひとつ解放して、
「ああ、この日も生きた」と、小さな満足を一つひとつ積み上げていく。
その積み重ねが、心も体もいきいきと輝かせるのだ。
(190714 第557回)