選ばれたる人とは、自らに多くを求める人であり、凡俗なる人とは、自らに何も求めず、自分の現在に満足し、自分に何の不満ももっていない人である
スペインの哲学者であり思想家のオルテガの言葉である。20世紀に生きたオルテガは、大衆が支配する「超民主主義」に警鐘を鳴らし、「自由主義=リベラル」を擁護した。オルテガのいう「大衆」とは、現在を生きる人間のことしか考えない「自分さえよければ」という傲慢な精神の持ち主。反対に、過去に生きた人たちの知恵を生かし、自分と異なる他者と共存しようというリベラリズムを身につけた人たちを「貴族」と呼んだ。このことは、著書『大衆の反逆』に詳しい。現在、政治用語として使われているリベラル=革新は、オルテガの言うリベラルとは正反対と言っていい。
自分が今ここにいる奇跡を考えたことがあるだろうか。
遺伝学者の村上和雄氏は、
「一つの命が生まれる確率は、一億円の宝くじが100万回連続して当たることと匹敵する」と言った。
つまり、誰もが神によって「選ばれし人」であるということ。
この世に生まれ落ちる理由があったということだろう。
そしてオルテガは、「選ばれし人」ならば…と、生の本質を説く。
「本質的に奉仕に生きる人は、大衆ではなく、実は選ばれたる被造物なのである。
彼にとって生は、自分を超える何かに奉仕するのでないかぎり、生の意味を持たないのである」
秘められた力を伸ばそうとせず、他に依存し、不平不満だけを社会にぶつけるのが「大衆」ならば、
与えられた環境の中で、存分に能力を発揮しようとする人を「貴族」とする。
なぜ生まれてきたのか。
なぜ生きるのか。
答えは誰にもわからない。
しかし、これだけはわかる。
守りたいもの、つなげたいものなど、そうせずにはいられないという、
自分の損得を超えたところに心惹かれるものが生まれた時、「生」は立ち上がる。
おそらくそれが、見えない何かや、過去に存在したものたちからの呼びかけなのだ。
「お前に、それを託したぞ」と。
その声が、現状の自分を満足させず、至らない自分を高めさせる。
使命感、責任感、義務感という三銃士を従えさせて。
そう。
誰もが選ばれし貴族たる人間となる要素を、生まれながらに与えられている。
(190729 第562回)