慈悲の存在である如来や菩薩は、半眼にして情報量を少なくしておられるようです
宗教評論家のひろさちや氏の言葉を紹介。インド哲学や仏教学を学び、数多くの著書を出されているひろ氏。
仏教も宗教色が濃すぎるのはいかがなものかと思うが、生きていくためのスパイスくらいなら、自分流にアレンジができるからおもしろい。著書『のんびり、ゆったり、ほどほどに』からの抜粋。
如来像や菩薩像をながめていると不思議と安心するのは、おそらくあの「目」ではないかと思う。
開くでもなく、閉じるでもなく、
ましてや、まっすぐこちらを見るでもない。
伏し目がちに、ちょっと先を見つめる視線。
ほとけさまの半眼は、静かにやさしい。
悟りを開き、この世のすべてをご存知であるはずなのに、
視線を落とし、こちらに緊張感も威圧感も与えることなく、
じっと黙され、ただただ、受け身の姿勢であたたかい。
なんびとも、どんなものにも裏も表もあることをご存知だからこそ、あえてどちらも直視しない。
情報過多の世の中なら、なおさらのこと。
直視すればするほど、心は乱れ、迷いも疑念も生まれる。
明極まれば則ち察に過ぎ、疑い多し(『近思録』より)
なにごとも、あまりに見えすぎると粗が見えて、最初の感動も薄れてゆく。
月あかりほどの、ほどよい明るさであれば、美しいものは美しく、そうでないものもそれなりに……。
選択肢がありすぎて迷うくらいなら、いっそ、選択肢のないところに身を置くのもいいんじゃない?
(190817 第567回)