「優れている人」は「理解可能な優れている人」だから、実はあまり優れていない可能性が高い
能楽師の安田登氏の言葉を紹介。下掛宝生流ワキ方を務める安田氏は、高校教師時代に能に魅了され27歳で入門したという。体を整えるボディーワーカー、ロルファーの資格を有し、能と絡めた活動も行っている。今年5月にNHKで放送された「100分de名著」で「平家物語」を担当。そのときのテキストの中にあった言葉だ。
世に優れた人物はごまんといる。
誰がどうみても優秀な人。
たしかに彼らは優秀だろう。
だけど、その優秀さは何を基準としているのか。
「たとえば会社の人事で、トップに誰を据えるかを決めるとします。それを決定する人たちが選んだ人は、彼らよりも能力的に劣る人である可能性が高い。なぜなら、その決定は、決定権をもつ偉い人たちが上から目線で行うからです」
それゆえ、自分よりも才能がある人のことは、人は基本的に理解できない。
本当に優れている人のことを理解できる人はきわめて少ない、と安田氏。
理解不能な人というのは、得体のしれない力や才能を秘めていたりする。
そういう人ほど、人知れず黙々と努力している。
たとえば、ジャン・ジオノの「木を植えた男」のエルゼアール・ブフィエのように。
この本の冒頭にはこう書いてある。
― 人びとのことを広く深く思いやる、すぐれた人格者の行いは、
長い年月をかけて見定めて、はじめてそれと知られるもの。
名誉も報酬ももとめない、まことにおくゆかしいその行いは、
いつか必ず、見るもたしかなあかしを、
地上にしるし、のちの世の人びとにあまねく恵みをほどこすもの。
安田氏いわく、
「教える立場から見ると、〝ダメ〟はすぐにわかります。何が〝ダメ〟かは明確にわかる。ところが〝いい〟に関してはむずかしい。なぜなら、自分が〝いい〟と言った瞬間に、自分がそのレベルに固定されてしまうからです」
自然はつねに変化しつづける。
植物も人も、生きとし生けるものはすべて。
どのように変化するのかは誰にもわからない。
ただわかるのは、「良い」も「悪い」も移り変わるということ。
(191101 第588回)