人生や仕事における主要な関心は、当初の自分とはちがう人間になることだ
ミシェル・フーコーの言葉を紹介しよう。ある本の冒頭でみつけた。彼がフランスの哲学者だと知ったのは、ずいぶん後になってからだ。とくに気になる言葉ではなかったし、そのときはさらっと読み流していた。しかし、時間が経ってからふたたび手に取りページを開いた時に、目に飛び込んできた。出会いというのは、そういうものだろう。すべてはタイミングなのだ。
誰の言葉だったか、
人生は小説を読むように振り返ることはできても、
小説を編むようには生きることはできないという。
人生、何が起こるかわからない。
だれにとっても一寸先は闇。
だからこそ、人は夢や希望をもつことができる反面、
闇に恐れおののき、足がすくんでしまうこともある。
偉人伝などを読むと、
「ああ、そこでそうするから、結局、ああいうことになってしまうんだ」とか、
「そうだ、そうすれば、ああなれるんだ」と、
良くも悪くも客観的にその人物の人生を読み解くことができる。
もう終わった過去の話だから。
おそらく、神や仏の目には、すべての人間がそう見えているにちがいない。
小説を編むように生きることはできないけれど、
ときどき振り返って、これまでのストーリーを読み解くことはできる。
どれだけ歩いてきたか、どうやってここまで歩いてきたかを。
1年前、5年前、10年前と遡れば、
当時とはあきらかに違う自分が今ここにいることに気づくはずだ。
とりわけ何かを学んでいれば、なおさら成長の証が見えるはず。
当時は知らなかったことも、今ならわかるだろうし、
当時はできなかったことが、今ならできると自信をもって言えるだろう。
もしも、自分の人生を小説にするとしたら・・・。
どんな結末がいいだろうか。
どんな人を登場させて、どんなストーリー展開だとおもしろいだろう。
小説を読むと、多種多様な人生模様が垣間見える。
同じように、生身の人間にも、人の数だけ物語はある。
ときどき振り返って、スクリプトを組み立て直すのもいいかもしれない。
人生に無駄なことなどひとつもないのだから、
これまでの経験を生かしつつ、新しいストーリーを考えてみるのもいいかもしれない。
でこぼこでも、くねくね曲がっていても、欠けたり物足りないものがあってもいいじゃないか。
にんげんだもの。
それぞれだもの。
みんなが同じだったり、なんのへんてつもないストーリーなんて味気ないし、おもしろくもなんともない。
喜怒哀楽あり、滋味溢れるものがたりって、ちょっといいかも。
(191202 第597回)