人は、命は終わっても、「仕事」は終わらないのである
「はだしの禅僧」、関大徹老師の言葉である。著書『食えなんだら食うな』の最後の章、「死ねなんだら死ぬな」から抜粋した。この著書は、実業家の執行草舟氏が「命の恩人」と言わしめるほど愛してやまない本だったのだが、絶版の憂き目にあっていた。そこを、書店「読書のすすめ」の店長、清水克衛氏の尽力によって復刊。関老師の魂の喝がよみがえったのである。
人は、死を前にして何を思うのだろう。
死によって、すべてが終わるのだろうか。
死んだら、楽になるのだろうか。
関大徹老師はいう。
「仏教でいう『いのち』とは『業』である。業というはたらきは永遠につづくいてゆくのである。肉体は亡びても、業のはたらきは、はたらきをやめない。無始無終である」
輪廻転生。
生まれ変わり。
はたしてそれがほんとうなら、次はどんな風に生まれ変わるのだろう。
おそらく、だれしも一生に一度は、そんな風に考えたことがあるのではないだろうか。
少なくとも日本人の多くは、肉体が亡びても魂は生き続け、いつかこの世に生まれ変わると信じているはず。
「木を植えた男」という絵本がある。
人知れず荒野で樹を植えつづけた男の話だ。
男の名は、エルゼアール・ブフィエ。
妻と子を亡くした彼は、荒野に樹を植えることを思いつく。
幾度も失敗をくりかえし、およそ30年後、荒野は緑の森によみがえった。
豊かな森となった場所に訪れる者の誰一人として、そこがかつて荒野だったことを知らない。
男の存在も、ひとりの男が森をよみがえらせたということも。
年老いた男は死んだ。
けれど、森は生きて命を育んでいる。
男の命を受け継ぐように。
生と死をくり返しながら。
男の肉体は亡びたが、彼の「仕事」は終わってはいない。
いつか男は、輝きを増して、新たなミッションを手に、ふたたび森に還ってくるだろう。
(200122 第611回)