尽きることのない心・技・体の追求、それがダンスの魅力です。
ダンサー・コレオグラファー・ディレクター妻木律子さん
2020.01.27
コミュニティ空間のスタジオ「be off」を運営し、ダンススクールの先生・レンタルスペースのオーナー・自主企画のプロデューサーなど多彩な活動をする妻木さん。これらの活動はあくまでも「ダンサー妻木律子」を軸に展開しているものであり、「ダンサーとして更に上を目指すための積み重ねがそれらの活動につながっているだけなんです」と妻木さんは言います。根底にあるのは「自分は踊る人」であるということ。これまでの歩みをお聞きしました。
もっと自由に生きてもいい
お姉さんの影響で始めたモダンダンスはあくまでも趣味、もともとはジャーナリストを志望していたそうですね。
小さいときから空想が好きで、現実より遠くの世界へ行きたいと常に思っていました。リアルより想像の世界に思いを馳せて、例えば色鉛筆があれば、それで絵を描いて遊ぶのではなくて人形に見立てるんです。赤はお母さんでピンクがお姉さんみたいに。現実にはない世界を想像しながらよく遊んでいました。だから書くことも読むことも好きでした。文字ってどんな表現も自由なツールじゃないですか。本は私の大切な世界に行くための手段の一つだったんです。
そういう下地があったから、将来はジャーナリストになりたいと思ったのかもしれません。おっしゃるとおり、ダンスはあくまでも趣味でやっていたので、大学へ進学したときは続けるつもりはありませんでした。ましてやこれが仕事になるなんて、当時は思いもしませんでした。
しかし今、妻木さんにとってダンスは切っても切り離せない存在になっています。ジャーナリスト志望からダンスの道へ、そこには何があったのでしょうか。
今のように女性が働くことが当たり前ではない時代、実家が商売をしていた私にとって女性が働くのはごく普通のことでした。だから私も物を書く仕事に就きたいと思い、ジャーナリストを目指しました。大学は法学部政治学科に進学しましたが、通っているうちにだんだんと違和感を感じるようになりました。同級生との感性のズレ、学問ってなんなんだろう、そもそも正しい生き方とは?
大学1年生を終えた時、自分の生き方を考えてみようと思い一人旅をしました。そこで大きな出会いがあったんです。
ダンスの道へ進むきっかけとなった出会いということですね。どのような出会いだったんですか。
旅先でコミューン(同じ思想を持った人たちが共同生活をしている場)を訪ね、そこで出会った不思議な人物の生き方に触発されたんです。その人は企業に勤めてお金をたくさん稼ぐような人生ではないけれど、本に囲まれて自由に活き活きと毎日を送っている。お金以外で満たされた人生を歩んでいる実例を見てしまい、心を大きく揺さぶられました。この出会いがなかったら、ダンサーとしての私は存在しなかったかもしれませんね。
将来を見直し、生き方を改めて考えたとき、自然にダンスを選択したんですか。
小さいときから続けている趣味がダンスしかありませんでしたから、必然だったのかな。ダンスで食べていけるとはまったく思いませんでしたが、自分探しのためにもう一度踊ってみようという直感。若い時は思い立ったら即実行のタイプだったんです。在学中にスタジオに入門して、卒論もテーマはダンス。卒業してからもずっとダンスを続けているうちにここまで来てしまいました。
辞められない、ダンスの魅力
自分を見つめ直そうと思って再開したダンス、これが仕事になると思わなかったとおっしゃられました。それでも続けたいと思うほど、ダンスに魅了されていた。人生が充実していたんですね。
続けていくうちにどんどん深みが増すダンスの面白さがわかるようになったら、もう辞めらないですね。知らないこと、やるべきことがいっぱいあるんです。これは今でもなんですよ。終わりはありません。
おおらかな時代でもありました。好きなことをやっていて、それで食べていけなくても卑屈にならなかった。そういう人がいてもいいんだ、なんとかなるさという時代でしたから。
結果としてダンサーとして食べていけるようになられたわけですが、どれほどダンスに打ち込めばそうなれるのでしょうか。
中途半端ではありませんでした。大学卒業後もバイトをしながらダンスを続けて、寝る時間以外はほぼダンスのための時間。バイトをして稽古をして、寝るためだけに帰宅して、起きてまたバイトをして稽古をして……。若い時はとにかく貪欲で、上手くなりたい、海外に行きたい、売れたいなどの気持ちがエネルギーになっていました。
ダンスの仕事が安定してきたのはどのくらいの時期からですか。
20代後半ですね。ダンスブームが起きて宇都宮や東京でダンスを教える仕事が徐々に増えてきました。それでも金銭的なゆとりができたわけではありません。あくまでも自分が踊ることが軸ですから、ダンサーとして舞台には立ち続けていました。でもそれ自体はお金にならないから、舞台に立つためにお金をそこにつぎ込むんです。舞台でお金を得られるようになったのはもっと後になります。
アーティストはときに、自分の表現を世に出すためにあらゆるものを注ぎ込みますよね。
やはりそれで食べていけるようになるまで、時間とエネルギーとお金をかけないといけないケースが多いですからね。私の場合は運も良かったと思います。人との縁に恵まれて多くの仕事やチャンスをもらいましたから。中でも海外研修のチャンスをもらえたことがダンサーとして一番大きかった出来事ですね。この研修でいろんなことが変わりました。
ダンサーとして大きな転機となった海外研修
文化庁派遣在外研修員としてアメリカに1年間の研修に行かれていますね。
栃木県の文化奨励賞をはじめ、東京でも賞をいただいたりして、志望が通ったんです。
ダンスという視点で、日本との違いはどのようなところにありましたか。
ダンスを仕事として受け入れる環境がありました。人に「職業はダンサーです」と話した時に日本とアメリカでどう相手のリアクションが違うかを想像してもらえるとわかりやすいでしょうか。
ダンスを見ている人の反応もまるで違いました。アメリカではダンスがアートだと理解してくれるんです。共感してもらえたり、喜んでもらえたり、褒めてもらえる。踊ることを介して人と喜びを共有できることが日本ではあまりありませんでしたから。
ダンサーとしてどのようなことを学びましたか。
日本ではそれなりに実績もあり選ばれて研修に来たのに、なんて未熟なんだろうと思い知りました。でも絶望をしたわけではありません。これからたくさんやるべきことがあるとわかったんです。それは逆に希望になりました。
また、一流のアーティストである先生たちに触れて、考え方と価値観が大きく変わりました。アーティストって凄い人物、アートは特別なものと思っていましたが、ダンスを踊ることは彼らにとって日常的で当たり前のことなんです。ダンサーとしてすごくシンプルに生活することを近くで見せてもらい、学びました。生活という基盤の上にアートが成り立っているような感覚ですね。
研修が終わりを迎えたときの感想についてお聞かせ下さい。
これで夢の1年が終わりだと思うと悲しかったです(笑)。ダンスだけをしていればいい1年間、これは一生分のご褒美だと思いました。また、気が引き締まる思いもありました。せっかく勉強させていただいたのだから、これで終わりにしてはいけないし、もっと頑張ろうと思いました。
海外で学んだことで帰国後にダンサーとして変わった部分、変えていった部分はありますか。
技術的なことよりもまず、ダンサーとしての肉体を作らなくてはと思い、どうすればどう体は動くのかを研究するようになりました。努力を続けていれば体は少しづつでも変わっていくし、だんだん体を信じられる感覚を覚えていったので、それは大きな支えになりました。そして生活から見直してダンスを考えようと思い、東京から宇都宮に住まいを移しました。
理想の肉体に近づけるためにはライフスタイルも変える必要があったんですね。
東京では大きな舞台に立つ機会もある一方、日々の生活はひどいものでした。終電にやっと乗って帰宅し、食事もめちゃくちゃ。肉体を晒している仕事なのに、そんな精神で形作られた肉体でいいの? と考えるようになりました。だから東京の慌ただしい生活から、ちょっと隙間を持ちたいと思うようになり、宇都宮に移りました。こっちでも仕事がありましたし、ダンスでつながる仲間もできましたから。
コミュニティ空間「be off」
宇都宮美術館で開館から閉館まで踊り続ける企画「妻木律子ダンストライ」をはじめ、2004年に「be off」を設立するまでの妻木さんはダンサーとして怒涛の活動をしてらっしゃいます。
きっかけは1999年の東京国際フォーラムの舞台上で本番中に怪我をしたことでした。そのときに怪我をしても踊りきることができた経験で、ダンサーにとって肉体も大切だけどメンタルもすごく大切な要素の一つなんだと気がついたんです。
ダンスを教える仕事が安定してきたなかで、精神というテーマを持つようになったら、ダンサーとしての自分の本能を思い出して闘争心が湧いてきました。
教えるだけの人間ではなく、あくまでも自分はダンサー。軸がブレることはありませんね。
それで体が自分の理想通りに動くのならもっとメンタルを強くしたい、厳しい環境に身を置きたいと思いました。ドイツ各地を何百キロと車で移動しながら踊ったり、宇都宮美術館でダンストライを企画して実行したのもその一環です。それからも大きな舞台にこだわることなく、小さいところでもガンガン踊る。それまでの「教える私」よりも、「ダンサー妻木」が色濃くなった時期でしたね。
そして「be off」の設立に至るわけですね。
そういう活動のなかで、ダンス好きの方々との出会いがあり、仲間ができて……。それで皆さんとともに過ごせる拠点が必要だと思い、「be off」というコミュニティー空間をつくりました。
このスタジオは3つの顔を持っています。一つ目はレッスンスクール。二つ目はレンタルスペース。そして三つ目は私がプロデュースした企画を実施するという顔。国内のみならず海外からもアーティストを迎えて、パフォーマンスやここでしかできないイベントを立ち上げるというものです。
「be off」設立直後、目標や将来像など先のことについて考えたことはありましたか。
自分が守りに入ることで、ダンスの可能性が狭まり、ここが上手に機能しなくなるのはいけないと思いました。それで海外研修の志望を出したんです。その審査が通り、ロンドンに行きました。アメリカにはダンサーとして研修に行きましたが、ここでの研修は場をオーガナイズするディレクターとしての研修でした。社会の中でアートがどう活かされているかをたくさん見ました。ダンスやアートの可能性を見た3ヶ月の研修でした。
研修での学びを得て、これまでとまた違った展開をするようになったんですね。
ダンスの可能性を広げていくことができました。研修で学んだことを活かし、学校の授業や保育園でコミュニティダンスを教えたり、企画を立ててコンサートや映画をやったり、ダンスが社会の中にどう組み込まれていくかをどんどん試していきました。
そのうちに今度は自分のダンス教室の生徒たちだって放っておくわけにはいかないと思い、生徒の力を伸ばす指導をするようになっていきました。
自分を客観的に知ること
妻木さんが感じるダンスの難しさとはどのようなものでしょうか。
知らない間に型にハマってしまうことですね。だからそうならないために客観的な視点を大切にします。今でも東京で先生に指導してもらっているんです。知らない間にできているつもりになるのは避けたいですから、トップではない一番下の立場である環境をあえて作っておかないと。
これからの目標についてお聞かせください。
幸いなことに「be off」という空間は多くの人たちから愛される場になってきました。だからここがよりよく存続するためにはどうしたらいいんだろうとずっと考えています。
また、踊る妻木が見たいと言ってくださる方がいる以上、プレイヤーとしてもまだまだ頑張ろうと思っています。
亡くなった友人が私に「律子はドアがたくさんあったらどんどん叩いていく。開かなかったら次のドアっていうふうにね。私は一個のドアが開くまで叩き続ける」と言ったことがありました。ほんとにその通りだなと思ったんです。良い悪いは別にして、私はそういうタイプなんです。ダンスを軸に雑多なことをやるのが私の特徴、売りでもありますから、これからもたくさんのドアを叩き続ける。レッスン・企画・プレイヤー、何でも意欲的にやっていきたいですね。
(取材・文/村松隆太)
Information
【大谷石蔵スタジオ be off】
〒320-0838 栃木県宇都宮市吉野町1-7-10
TEL:028-689-8661
ブログ:http://www.tsumaki-ritsuko.org