お前が得心したら、それが今の答えや。明日は明日の答えがあるかも分からん。
荒行として知られる千日回峰行を2度満行した大阿闍梨 酒井雄哉老師の言葉だ。弟子である「日本駆け込み寺」代表の玄秀盛氏との珍問答集『大阿闍梨 酒井雄哉の遺言』から抜粋した。無頼漢の玄氏の珍問に、「おまえはあほか!」と檄を飛ばしつつ子供に諭すように応える大阿闍梨。
「なぜ答えを教えないのですか?」と尋ねられて返した言葉がこれだった。
1+1=2
2+2=4
3+3=6
答えはひとつ。
多くの人が、そう教えられた。
でも、
1+1=3 だったり、
1+1= 1? それとも、
1+1=11 じゃだめ?
1+1= 田か、甲か、あるいは申か。
1+1=2よりも大きくて、0よりも小さい。
ってのはどうでしょう、阿闍梨さん?
「お前が得心したら、それが今の答えや。明日は明日の答えがあるかも分からん。
人と自分を比べたり、いろいろある答えを比べたり、そうするから間違う。
お前が自分で納得したことが答えや。答えは一つじゃない」
ひねくれた回答にも、阿闍梨さんはきっと「それもあるなあ」と答えてくれるにちがいない。
国語、算数、理科、社会。
学校の勉強は答えがはっきりしているものが多い。
しかしほんとうは、どの教科も答えははっきりしていないのではないか。
なぜそう思うのか。
なぜその回答なのか。
説明ができなければどうしようもない。
「答えって、一つはっきりしてるから答えじゃないんですか?」と、玄氏。
「一つに決めたって、納得でけへんかったら、それはお前の答えにはならへんやろ?」
お前の答えや誰の答えやと、答えがみんな違ったらぶつかってしまうじゃないかと、さらに玄氏は大阿闍梨にくってかかる。
「なんでや? それはルールのことやろ?
答えっていうのは自分自身の中にあるもんや。だから、今日の自分の中にある答えは、明日の自分の中にある答えと違ってええんや」
まちがってもいいじゃないか。
昨日と今日の答えが違っても、今日と明日の答えが違っても、
いまここに生きていることが答えなのだ。
今回は、「朧月夜」を紹介。
「おぼおぼ」という擬態語から派生したと言われる「朧(おぼろ)」。ぼんやりと、はっきりしない様子を表しています。続きは……。
(200402 第629回)