力を抜けば抜くほど、力が出る
野口体操の創始者、野口三千三の言葉だ。なによりも自分のからだに耳を傾けることが根本だと説く野口氏。体の重さは動くためのもので、重さがあるから楽に動くことができると、体の原理に合わせた体操を編み出した。自分の体の重さを知ることで大地からエネルギーを受け取ることができ、無理なく自然に理想体型になっていくという。ちなみに、「野口整体」の野口晴哉氏とは、まったく関係性はない。
力というと、力こぶのような、かたいものを思い浮かべるだろう。
筋骨隆々な体のイメージ。
硬く、頑強なもの。
それこそが力の源であるかのように、サディスティックなほどに身体を痛めつけ、鍛えようとする。
「根性トレーニング」がまさにそう。
歯を食いしばって、腹に力を入れて、痛みを我慢してひたすら練習に励む。
しかし、それでは本来の力が発揮できないと、野口氏は根性トレーニングに異議を唱える。
「大自然の力に抵抗する能力を力と呼び、そのような力を量的に増やすことを鍛錬と呼ぶ、という考え方は傲慢の極みである」
人は苦しい鍛錬を乗り越えることを良しとするけれど、
それは心の満足にはなっても、体の満足にはならない。
「苦しさに耐える」ことを前提にした行動は、本来もっている力を低下させるというのだ。
そんなこと言ったって、苦しさに耐えなければいけないときもあるじゃないか、とも思う。
そんなときは、どうすればいいのかと。
そういうときこそ、力を抜けと野口氏はいう。
「次の瞬間に新しく働くことのできる筋肉は、今、休んでいる筋肉だけである。今、休んでいる筋肉が多ければ多いほど、それはよい姿勢。……ある動きをするのに、働く筋肉の数が少なく、働く時間が短く、働く度合いが小さいほど、それはよい動きである」
緊張したままの筋肉では、次の動作に移れない。
腕をだらりと垂らして敵を迎え撃つ剣の達人のように、
力は抜けば抜くほど、強力になる。
柔らかい物腰の人のひと言が、鞭を打たれたように響くのも、柔らかさゆえのことだろう。
ちなみに、わかりやすい例えとして、野口氏は男性性器を取り上げていましたよ。
今回は、「五月雨」を紹介。「さみだれ」です。梅雨の季節に東北を旅していた松尾芭蕉も――五月雨を集めて早し最上川 と詠んでいます。続きは……。
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(200621 第648回)