若い頃、壁だと思っていたものは、実はひとつひとつ昇るための階段だった。
箏奏者、和久文子さんの言葉を紹介。10歳で箏に出会い、19歳で箏の第一人者、沢井忠夫の演奏に衝撃を受け、のちに沢井夫妻の内弟子となった和久さん。独立後はプロとして新たな境地を切り拓きながら国内外で演奏活動を続ける傍ら、後進の育成にも尽力。2017年には故郷栃木県の文化功労賞を受けている。彼女の50余年の箏人生は、この言葉どおり試練と努力の積み重ねだったのだ。
東京は港区の愛宕神社には、「出世の石段」といわれる階段がある。
徳川家光の命により、急勾配の石段を馬で登って梅の木を献上し、出世した曲垣平九郎の故事にちなんで名付けられたという。
二の足を踏む家臣をよそに、一人悠々と馬を操り登ってゆく平九郎。
それもこれも、日頃から馬術の稽古を怠らなかったからだろうと、家光公はその努力を讃えたそうだ。
愛宕神社に限らず、神社仏閣に階段はつきものである。
それというのも、神や仏は人間よりも高いところにいるからで、
一段一段のぼってゆくことは修行であり、
身も心も清められていくと信じられているからだ。
いざ階段を昇ろうとするとき覚悟がいるのは、
見上げるそこがあまりに高く、急勾配だからかもしれず、
それでも足を踏み出すのは、やはり天上におわす神や仏のもとにゆきたいと願うからではないだろうか。
登り始めは軽い足取りも、登るごとに鉛のように重く遅くなるのも事実。
わずか十数センチの一段ですら、立ちはだかる岩壁にも思えてくる。
それでも人は、石段があると知りながら神社仏閣へと足を運ぶ。
ゆっくりであっても昇りきり、神仏の前にたどり着けば清浄な心もちで手を合わせるはずだ。
人生は山だという人もいる。
地上から天上へ向かうのはみんな同じ。
一歩一歩踏みしめながら昇ったあとの、身も心も洗われて眺める景色は、えも言われぬ絶景だろう。
今回は、「雲の鼓」を紹介。雲に鼓とくれば、鬼。「風神雷神図屏風」の雷神が浮かびませんか。そのとおり、「雲の鼓(くものつづみ)」とは「雷」のこと。続きは……。
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(200714 第653回)