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紺碧の将

喉元過ぎれば

2020.07.27

 梅雨の雨がぽそぽそ降った後、今朝はきれいな青空が広がっている。しかし天気予報はお昼ごろまでには気温29度、湿度95パーセントになると報じている。ああ、こうして熱い夏は確実にやってくるのね、と私は昨年の7月はもっとすごかったことを思い起こしている。これでは来年のオリンピックはどうなるのだろう、とすごく心配したものである。その後はコロナ戦争が勃発して、オリンピック開催などはとっくに何処かへ吹っ飛んでしまった。そこへ未曽有の水害事故である。私一人の人生でも予期せぬことが起きるのだが、世界規模でのどんでん返しや、予測不可能な出来事がこうも人間の生業をこともなく変えてしまうことに、為す術が分らずただ茫然としてしまう。

 

 昨年の7月末、私は生まれて初めての入院体験をした。もうすぐ8月で私の77歳の誕生日が近い。生年月日を含めるとラッキーセブンの74個も付くので、きっといいことが待っている、と浮かれ気分だった。ところが、暑さと過労がうまくドッキングをして緊急入院と相成った。

 

 一息ついて冷静になった時「この入院は神様からのバースデイプレゼントかもしれない」と素直に感謝の気持ちが湧いてきた。思えば生まれてこの方出産以外は病院のお世話になったことがない。今回初めて点滴の味を知ることになったのだが、食事代わりの栄養だとか、気持ちよく休めて天国にいるみたいだった。点滴ってすごいんですね。

 

 いろいろな検査をしてもらい判明した病名は「急性胆のう炎」、おまけに数個の胆石が写っているそうだ。「うっそう!!」私は心底たまげてしまった。「再入院して胆石と胆のうを取ってしまいましょう」事もなくそんな宣告を受け、早々に退院したのだが私の心は決まっていた。「手術なんかするものか」と。胆のうという言葉は知っていたが、我が体の中にちゃんと存在していて、今それが悲鳴を上げていることを知らされた私は心穏やかではなかった。健康であったが故に無視され続けてきた私の体の一部を、自覚したと同時に切り取られてしまうなんてあまりにも不憫だ、と思った。「不摂生をしていた私が悪いんです。これからは胆のうと仲良く付き合っていきますから手術だけはご勘弁を」という心境であった。

 

「お酒は止めること、脂肪分は控えめに」ドクターの明快な忠告に、私って中年のおやじみたいだな、と苦笑いしながらも定期健診を受ける約束をして自由の身になった。「今度何かあったら簡単な手術ではすまないかもしれませんよ」とのだめ押しを、馬耳東風と聞き流すほど私の神経は図太くもなく、しばらくは不自由の身を託つことになりそうである。

 

 私は筋金入りの病院嫌いである。数年前のこと、私は慣れない場所で石段を踏み外し、あわや転落事故という時に思いきり急ブレーキをかけて下までの転落を防いだものの、片足だけの直角滑走みたいな体形になってしまい、思いっきり左股関節の腱を伸ばしてしまったようだ。骨折ではないと分ればもう病院へ行くことはない、と自己判断をしている。歩行ができるまで2か月を要したが、いろいろな工夫をして乗り越えた。痛み止めの薬など一切使っていないから、時間の経過とともに痛みの在りようや場所の変化がよく分る。「ぼちぼち回復しますよ」という身体の声が聞こえてくる。体力試しにと60日目に単身東京南青山の根津美術館へ出かけ、夕方には何事もなく宇都宮の我が家へ戻ってきた。ああ、これで一件落着、と心から安堵したものである。

 そういう訳で病院にも行っていないから病名もない。もしかしたら重篤な後遺症に悩まされることも有り得るわけで、向こう見ずの謗りは免れないかもしれない。コマーシャルではないけれど「よい子のみんなは真似しないでね」と言えそうである。

 現代医学を駆使した医学の恩恵に与かることができる私たちは最高に幸せな時代に生きている。だからこそ全部甘えていてはいけない、という妙な矜持めいた気持ちが私の中にある。その代わりとんでもない事態に陥ったらどうぞどうぞよろしくお願いします。と心で手を合わせている。

 

 熱い季節になるとロンドンジンのオンザロックが一段と美味しく感じられる。チーズとの組み合わせは最高で、これにグリーンサラダがつけばご機嫌である。昨年の悪夢から一年になろうとしている。私の酒量もいつの間にかあの頃に戻ってしまったようだ。喉元を過ぎれば何とかで誠に情けなくもあるが、「今年のバースデイプレゼントも“入院”ということにしましょう」とのお告げが下りてこないようにと、このところにわか仙人のような生活をしている。

 

 

クレマチス

写真/大橋健志

 

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