人は皆、精神の風車をもっている
日本を代表する音楽家、芥川也寸志の言葉である。芸術的才能は父親の龍之介以上だったのではないかと思わせるほど、彼の音楽活動は多岐にわたっている。クラシック音楽、映画音楽、放送音楽、童謡と作曲は幅広く、テレビの音楽番組の司会も務めるなど、じつに多才で表現力豊かな人だったようだ。
彼の精神の風車は、あふれるメロディで回っていたのだろうか。
風車を「ふうしゃ」と呼ぶか「かざぐるま」と呼ぶかでイメージは変わる。
「ふうしゃ」と言えば巨大なものを、
「かざぐるま」と言えばおもちゃのような小さなものが思い浮かぶ。
風の力で回るのはどちらも同じだけれど、必要とする風の大きさと分量はぜんぜん違う。
生活のための動力であれば強く大量の風が必要だし、遊びや憩いのためなら、そよ風でもかまわないし分量も少なくてすむ。
『北風と太陽』の物語のように、冷たく吹きすさぶ風は冷え切った体をますます震え上がらせるだろう。
しかし、『風立ちぬ』の中で立ち上がった風のようであれば、生きる希望に胸も膨らむ。
あたたかい風なら、なおさらだ。
『荘子』の「斉物論篇」に「天籟」という言葉がある。
風がモノに当たって鳴る音のことだ。
あるとき、松林をわたる風の音を聞いた。
耳元でひゅーっと鳴ったかと思うと、建物や草木にぶつかり次々と音を鳴らしていった。
風が鳴ったのか、それともモノが音を鳴らしたのか。
ふしぎな感覚に心がゆれた。
心の風車が回ったのにちがいない。
自分で風を探しに行くもよし、吹いてくる風を感じてみるもよし。
「ふうしゃ」でも「かざぐるま」でもいい。
大きさや頑丈さは人それぞれだけれど、どの風車も風をまっている。
いい風がわたってくれば、くるくるとうまく回るはずだ。
今回は、「草いきれ」。夏草の生い茂る炎天下では、熱気ととともにむせ返るほど草が香ります。これが「草いきれ」。続きは……。
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(200819 第661回)