角倉了以とハングリータイガーに惚れ込んでいます。
文筆家、株式会社ハングリータイガー取締役相談役中田有紀子さん
2020.09.17
大学卒業後、出版社の編集者を経てフリーのライターに。聞き書きとして数十冊世に出した後、自著『この者、只者にあらず』(致知出版社)『小さくして強くなった』(エフビー)『母の説法』(幻冬舎)の3冊を上梓。52歳のとき、ハンバーグとステーキ専門店を展開する株式会社ハングリータイガーからスカウトされ、入社。80歳の現在も取締役として現役を続ける。
現在は角倉了以を描いた『この者、只者にあらず』の続編として、息子・素庵の評伝にも取り組む中田有紀子さんの波乱に富む半生をご紹介します。
婚活のち編集者、そしてフリーライターへ
中田さんは長年、文筆家として活躍されていますが、学校で文章の書き方を学んだことはあるのですか。
いいえ、特にありません。ただ、父が戦前東京日日新聞の記者をしておりましたし、母も文学少女でしたから家のなかにはたくさん本がありました。母と散歩や買物に行くついでに本屋さんに立ち寄り、「これ面白いから読んでごらんなさい」と本を買ってくれることもよくありました。小学3年のとき、学校に提出する作文を父が読んでくれ、「有紀子、遠足の作文に顔を洗ったり歯を磨いたりという、毎日していることではなく、一番印象に残ったことを書くんだよ」と指導してくれたのですが、その作文が、校内放送で読み上げられました。そのときのことが、のちに文章を書く原点になったかもしれません。
それをきっかけに、もの書きの道を進もうと思われたのですか。
いいえ、そうではないんです。大学卒業後も就職活動はしませんでしたから。
大学卒業後、就活をしないでなにをされていたのですか。
ひたすら見合いをしていました。結婚願望は強かったと思いますが、それより卒業したら結婚するものだと思っていました。一日に午前と午後の2回、見合いをしたこともあります。
いい家庭環境に育った人は結婚願望が強いそうです。
とにかく結婚に関してはやたら条件がありまました。あとになって考えると11も条件があるような……。見合いをするような男性はだいたい一流企業のエリート社員のような方が多かったのですが、その11の条件に合う方と出会えると思って見合いを続けていました。しかし、何十回見合いをしてもそういう方とは巡り会えませんでした。
しょうね(笑)。見合いではなかなか理想の男性と出会えないため、白馬に乗った騎士が現れるまでお仕事をしようと思われたのですね。
はい(笑)。ある方から知り合いの出版社に勤めないかと誘われ、入社しました。そこは経営学が専門の方が経営されている会社で、経営資料の集大成20巻をセット販売していたのです。私は編集部ではなく、社長秘書を仰せつかったのですが、それからが大変でした。20巻セットの代金を一括でいただいていたのですが、途中で資金繰りが悪化して刊行できなくなり、てんやわんやの事態になってしまったのです。購入した人からの苦情に対してお詫びの手紙を書いたりするうち、結局1年後に辞めました。会社はその後、倒産してしまいました。
お嬢様学校を卒業した方が就職したとたん、世の中の負の面を見せられたわけですね。衝撃も大きかったでしょう。
それはもう、なにがなにやらわけがわからないうちに1年が過ぎました。それから、あるご縁で旭屋出版が創刊する「近代食堂」の編集に携わることになったのです。外食専門の月刊誌ですが、ここでの経験は大きかったですね。大衆店から一流料亭まで、さまざまな業態の店に取材に行き、料理のことはもちろんのこと、経営に関することなど外食業界のことを多少知ることができました。当時は今とちがって、外食産業は社会の底辺の仕事と思われていて、働く人もそう思っていたのですが、そういう人たちが懸命に働いている姿をまのあたりにし、なんとかその人たちにスポットを当てられるような、自分の仕事を誇りに思ってもらえるような記事を書きたいと切に思っていました。
「近代食堂」の編集は何年されたのですか。
約7年です。
それからフリーのライターになられたのですか。
いいえ。まだ紆余曲折があるのです。新聞の求人欄を眺めながら、次は時間的に余裕のある仕事をしたいと思っていたんです。すると、「西洋美術を輸入する画廊」というコピーが目に飛び込んできました。応募し、採用されたのですが、なんと営業に配属されたのです。その会社は主にデパートの美術画廊に企画を持ち込んでいたのですが、どうしても高島屋と伊勢丹との取引ができていませんでした。ちょうどその頃、ステンドグラスのアンティークの企画があったのですが、私は自分なりに企画書をつくり、高島屋に伺ったのです。すると、その場で企画が通ったのですが、会社では信じてもらえず半信半疑の上司を連れて翌日もう一度、お伺いして取引していただけることを確認しました。さらに伊勢丹との取引も始まることになったのです。
営業のセンスもあったのですね。
営業のセンスというより、ステンドグラスという企画が時代に合っていたのと、企画書を書いたというのがよかったのだと思います。それまでは社長が話しに行くというスタイルでしたから。そんなこともあり、入社3週間で営業部長に抜擢されました。
それは快挙ですね。ただ、組織内での反動はなかったですか。わが国の組織風土は異例の昇進を妬む傾向が強いですから。
それはすごかったですね。女性たちとはすぐ仲良くなれたのですが、営業部の男性社員の嫉妬がすごかったですよ。営業先の接待でも、今なら明らかにセクハラとして問題になるようなこともありました。それで3ヶ月後、転職することにしたのです。
やりきれませんね。どうして仕事で成果をあげた女性を受け入れる度量がないのでしょう。小池都知事が「嫉妬という字は女偏ですが、ぜひ男偏にしていただきたい」と言った理由がわかります。それで、次はどのようなお仕事をされたのですか。
そのときも新聞の求人広告で探したのですが、夕刊のタブロイド紙の編集に携わることになりました。スポーツや政治の記事が多かったのですが、この職種もおびただしく私に合っていませんでしたね(笑)。毎日それなりに役割もありましたが、1年後、ようやく退職を認められ、フリーのライターとして再出発することになりました。35歳のときです。
フリーで働くことに不安はありませんでしたか。
ありませんでした。と言いますのは、それまでにご縁のあった方々にフリーになりましたと言うと、じゃあ手伝ってくれないかといろいろなお仕事をいただくようになったのです。そのうち、単行本のゴーストライティングの仕事が増え、そのなかには数十万部も売れた本もあって、予想外の印税を受け取ったりいろいろですが、幸いなことに、フリーライターになってから仕事がなくて困ったということはありませんでした。
角倉了以とハングリータイガー命
現在、中田さんの人生の2本柱は角倉了以(すみのくらりょうい)とハングリータイガーというハンバーグとステーキの専門店だとお聞きしましたが、まずは角倉了以からお聞きしましょうか。正直なところ、角倉了以は名前くらいしか知りませんでした。まず、角倉了以という人物について教えてください。
ひとくちに言えば、安土桃山時代の終わりから江戸初期にかけて活躍した京都の豪商です。
なぜ、中田さんは角倉了以に惹かれたのですか。
あるとき、日本の豪商何人かを取り上げた『豪商』という本を読んだのですが、なぜだか「角倉了以」に釘づけになってしまったのです。そして、もし生涯に1冊だけ本を書くとしたら角倉了以の評伝を書きたいと思ったのです。
それで書き始めたんですね。
はい、会社が非常に困難な状況を脱出できて、時間的な余裕ができたとき62歳でしたが、そこから書き始めました。了以という人は保津川や高瀬川を自費を投じてつくった篤志家というように理解されていました。また、そういうことでもあると思いますが、私は了以のすごいところは、その時代の金融の仕組みを革新したことだと思っています。それまでの、お金を貸して利息を受け取るという土倉の金融から、川を開削したり作ったりというインフラ事業に大金を投じて、そのリターンを長い年月かけて受け取る事業体という投資へと変革していったというところだと思っています。なぜこれほどのことをやりとげた人物が歴史に埋もれているのかと考えると、結局、江戸時代のもろもろを否定した明治新政府の思惑があったのではないかということが想像できます。その後、書き上げた原稿を持っていくつかの出版社を回りましたが、どこも断られました。私が死んだら、原稿はお棺に入れて焼いてと姪にたのみましたが、それではどうしても残念。だれか一人でもいいから読者がほしいと思い、現代の金融を革新していると思えた、ある事業家に「原稿をお読みいただきたい」という手紙をつけて原稿を送ったのです。そういう人ならきっと了以を理解してくださるだろうと思えたのです。
すぐにハガキをいただき、「いま、かなり忙しい日々をおくっているため時間はかかりますが、必ず読ませていただきます」と書かれていたのです。そして、半年くらい過ぎてからお手紙が届きました。そこには、もっと早く読めばよかった、この原稿は本にする価値がある。もし出版されたいのであれば、お手伝いできると思います、とありました。もちろん、すぐにお願いをしました。そうしてできあがったのが『この者、只者にあらず』です。2009年12月に発行されました。
忙しい事業家をそこまで動かせた了以のエネルギー、すごいですね。
はい。とてもありがたいことでした。今は角倉了以の息子の角倉素庵を主人公にした続編をなんとか書き上げたいと、細々書き進めています。初めて角倉了以について知ってひとめ惚れして以来、角倉親子に惚れっぱなしなんです(笑)。
そこまで惚れられた方も本望でしょうね。ところで、もうひとつの惚れた相手、ハングリータイガーについて教えてください。
所属する会社を愛するということ
ハングリータイガーは横浜市を基盤に店舗展開するハンバーグとステーキの専門店です。「近代食堂」の仕事で井上修一社長(現会長)を取材したのが縁で、その後もときどき社内報やメニューブックの文章を頼まれたりしていたんです。バブルが崩壊したあたりだったと思いますが、井上社長から「社員の悩みを聞いてくれるお母さんのような立場の人が必要だ。ぜひ、うちに来てくれないか」とオファーがあったのです。「ライターより楽に老後が送れますよ」と言われ、入社したのですが、楽どころか、それからが大変でした。バブル崩壊後、外食全体が仕組みを変えているときで、ハングリータイガーもシステムの変更に取り組んでいました。新しいシステムがようやく完成し、売上も上がってきていて、〝いよいよこれから〟というとき、輸入した牛肉が原因で食中毒を発生してしまったのです。倒産寸前まで追い込まれ、塗炭の苦しみを味わいました。その後、店舗の8割を売却し、事業規模を縮小することで会社は立ち直りましたが、そのときの奮闘を描いたのが『小さくして強くなった』で、『この者、只者にあらず』と同じ頃に刊行されました。
長年、外食関連の企業を取材したことが活きたのでしょうね。今でも肩書は「取締役相談役」となっていますね。
入社してから28年、まさに〝ハングリータイガー命〟です(笑)。私は今年の3月で80歳になりましたが、今でも週1回出社しています。現在は井上会長の息子さんの元文さんが社長を務めていらっしゃいますが、事業縮小と同時に社員を売却先に引き取られていたため、勤続年数の長い人がいなくなっているということもあり、多少の補佐と、若い人たちへのアドバイスができているのかなと思っています。
人生100年時代と言われていますが、ただ無為に膨大な時間を浪費するのはもったいないですよね。中田さんはずっと現役を続けられ、本も執筆中。未来を見据えているから活力が生まれるのでしょうね。新しい時代の良きお手本として、これからも頑張ってください。
(取材・文/髙久多美男)