松のことは松に習え
『論語』などの漢籍に見る「子曰く…」。「先生が言うことには」と、弟子が師の教えを書き留めた文章は日本にもある。松尾芭蕉の弟子、服部土芳が書き留めた『三冊子』。このなかの「赤冊子」にこの言葉はあるという。俳人の石寒太氏の著書『芭蕉の晩年力』に見つけた。
土芳が書き留めたものをそのまま抜粋してみよう。
―― 師の詞(ことば)ありしも、松のことは松に習へ、竹のことは竹に習へ、と師の詞ありしも、私意を離れよ、といふことなり。この習へというところを己(おの)がままにとりて、つひに習はざるなり。
「芭蕉先生が『松のことは松に習え、竹のことは竹に習え』とおっしゃったのは、『対象物に対する先入観を捨て去って、ひたすら物とひとつになりなさい』ということを言われたのです。ところが、そういう態度をとらず、自分勝手に気ままに対象物を把握し、結局、『習う』ことすら順わないで終わってしまうことが、本当に多いのです」(石寒太訳)
松のことは松に習え、竹のことは竹に習え。
先入観をすて、ひたすらその物とひとつになれ。
芭蕉はそう言ったという。
その証拠に芭蕉は、岩手県・平泉の義経終焉の地では攻め滅ぼされた兵士たちに、山形県・立石寺では蝉(あるいは岩?)になって、
「夏草や兵どもが夢の跡」
「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」
と、名句を詠んだ。
相手を知ろう、わかろうと思うなら、まずはそのものになりきったほうが話は早い。
なりきれないなら、眼を見開き、耳をすまして聴いてみる。
そこに「我」はいらない。
ただただ、滅私、没我で対峙する。
そうすれば、相手の訴えが聞こえてくるはず。
心象風景も見えてくるはず。
松のことは松自身がよく知っているのだし、
竹も「竹のことは私に聞いてください」と言うにちがいない。
餅は餅屋。
われ以外みな師と思って、まずは耳を傾けてみよう。
今回は「月影(つきかげ)」を紹介。月の影であると同時に月の光でもある月影。とりわけ歌に詠まれる月影は、夜空からふりそそぐ月の光を言うのでしょう。続きは……。
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(201111 第680回)