おしなべて ものを思わぬ人にさへ 心をつくる 秋のはつかぜ
桜の歌人、西行の歌である。『新古今和歌集』巻第四秋歌上の299首目がこれだ。桜を詠ませたら右に出るものはいないというほど典雅な歌を詠む西行だが、秋の歌も秀逸である。事情あって世捨て人となったからこそ、浮世を眺める眼差しは慈悲深い。もののあわれこそ浮世なのだと気づかされる。秋の初風はとうに過ぎたが、冬まっさかりに入る前に、今一度秋風を感じてほしい。
思い悩んだり、考え込むことのない人でさえ、秋の訪れはなんとなく物哀しさ感じさせる。
ふだんは忘れている人に思いを馳せたり、今は亡き人との思い出にふけることもあるだろう。
これからの行く末を案じることもあれば、これまでのことを後悔したり、反省したり、普段は気にも留めないささいな出来事が、心身を絡め取ることもあるかもしれない。
胸の裡に深く沈みこんで忘れていたことを、あえて思い出させて、いまここに生きている実感を味わわせるのだ。
そうやって、秋風は木々を色づかせるように、色褪せた人の心をも色づかせる。
寒く冷たい色のない冬に入る前に、少しでも色を感じてあたたかくなるようにと、秋風が計らってくれているのだろうか。
物哀しさや虚しさ、悩み事や考え事の一切も、季節の巡りと同じで移ろうものだと言わんばかりに。
しかし、木々や人の心を色づかせて物思いに耽らせるだけが、秋風の役どころではない。
果実を色づかせ、大地に実りをもたらし、われわれ人間に感謝の念を抱かせる。
ものを思う人はもちろん、ものを思はぬ人にさえ、「おいしい」「うれしい」「きれい」「ありがたい」と、心をつくる秋のはつかぜ。
無為自然は、人も自然の一部に還すのだろう。
自分もただの一個の人間にすぎないのだ、と。
●知的好奇心の高い人のためのサイト「Chinoma」10コンテンツ配信中
今回は「面映(おもは)ゆい」を紹介。なんとも照れくさい、気恥ずかしい。鏡を見ずとも頬の赤らみがわかる。そんな様子が「面映ゆい」です。続きは……。
(201130 第684回)