想像力の対極にあるもののひとつが「効率」です
これが格言的なちからのある言葉かと問われると、はっきりYESとは言い難い。言い難いけれど、「たしかにそうだ」と思って取り上げた。村上春樹氏の著書『職業としての小説家』にあった。「効率」とはほど遠い想像力を駆使した小説家ならではの発言だろう。
小説家に限らず、芸術家の多くは「効率」の対極にいる。
効率の悪さを補ってあまりある想像力が、創造を駆り立てるのだろうか。
原始的といえば、原始的。
効率なら機械のほうが優れているのだし。
新しいものをつくる、なにかを生み出すには想像力(創造力)なくしてはありえない。
まさに、想像力とは創造力。
しかし、この想像力の賜物である小説やその他のさまざまな芸術は、日常に直接役に立つかといえば、ほとんどが「NO」だろう。
それでも、古今東西、求めてやまない人がいるし、自ら作る側に立つ人は多い。
なぜか。
おそらく、本能的な情緒がそうさせるのだろうと思う。
情緒とは、日本的にいえば「もののあわれ」であり、何かに感じる心、折々に起こるさまざまな感懐や気分、思いなどで、目にするもの耳にするものが胸の奥深くに沈み込んだ琴線を鳴らす。
しかし、この情緒、放っておいて勝手に育つものではない。
数学者の藤原正彦氏は、著書『祖国とは国語』の中で、情緒には2種類あると言っている。
ひとつは「生得的にある情緒」。
つまり、生まれながらにしてある喜怒哀楽のような原始的な情緒。
もうひとつは「高次の情緒」。
これは、教育により育まれ磨かれる情緒とも言い換えられ、
「自らの悲しみを悲しむのは原始的であるが、他人の悲しみを悲しむ、というのは高次の情緒である」と説く。
この高次の情緒を育てる最大の教師は、かつては貧困だったと藤原氏はいうが、今はかつてのような社会全体が貧困にあえいでいるわけでもないから、他人の不幸を自分に引き寄せて考えるには想像力をたくましくするより他はない。
そこで、日常では役に立たないと思われている文学などの小説や詩歌、その他、文化芸術が、貧困にかわる最大の教師となるのである。
村上春樹氏いわく、
「どんな時代にあっても、どんな世の中にあっても、想像力というものは大事な意味を持ちます」
もはや想像力を欠いた効率優先の経済至上主義が行き詰まっていることは、誰の目にもあきらかだろう。
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(201220 第689回)